武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰
武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰
1571年3月
徳川家康と武田信玄
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高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)
1571年3月2日 ~ 25日
静岡県掛川市上土方嶺向
足助城の戦い(あすけじょうのたたかい)
1571年4月15日 ~ 19日
愛知県豊田市足助町須沢
武田信玄像
大野田城の戦い(おおのだじょうのたたかい)
1571年4月28日 ~ 29日
愛知県新城市野田
足助城を落とした武田信玄は、奥三河の国衆を降しながら、作手城主・奥平貞能と田峯城主・菅沼定忠を案内役として菅沼定盈が守る大野田城に向かう。
信玄は武田信豊・馬場信房・秋山信友らを家康の押さえとし、山県昌景・小笠原信嶺・相木市兵衛らに対して大野田城攻めを命じた。
4月28日の夜半、案内役の菅沼定忠は、大野田城主の菅沼定盈と同族であったため、悲劇を最小限に抑えようとしたのか道に迷ったふりをして大野田城から西北に5kmほどの本宮山に出てしまった。
菅沼定盈が武田勢の来襲を知ったのは、武田勢がちょうど本宮山に居た頃であった。
城内では直ちに軍議が開かれたが、籠城するか打って出るか決定しないまま夜が明けてしまった。
そこに武田勢の目にしたこともない大軍を目撃したため、城に火を放って一目散に西郷方面へ退去した。
武田勢は、定盈を追撃することはせず吉田城に向かった。
二連木の戦い(にれんぎのたたかい)
1571年4月29日
愛知県豊橋市仁連木町
岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)
1572年10月3日 ~ 11月14日
岐阜県恵那市岩村町城山
元亀3年(1572年)10月3日、諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝していた武田信玄が西上作戦を開始し、信玄は家臣の秋山虎繁(信友)に美濃の岩村城攻めを命令した。
岩村城は、織田信長の叔母を室に迎えていた城主・遠山景任が没したあと、信長の五男の坊丸(勝長)が遠山氏の養子に迎えられるなど、信長の勢力下にあった。
11月、秋山虎繁は武田軍を率いて岩村城を包囲した。
信長は兄の織田信広らを援軍として送ったが武田勢に敗れてしまう。
秋山虎繁は、おつやの方に対し自分と結婚するという条件で開城すれば籠城している者達の命は取らぬと申し入れた。
それに対しおつやの方は条件を受け入れ、岩村城に籠城していた岩村遠山氏の一族・郎党達は武田氏の軍門に下り、坊丸は人質として甲府に送られた。
11月14日、岩村城は武田方の城となり、下条信氏が入城した。
二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)
1572年10月 ~ 12月19日
静岡県浜松市天竜区二俣町
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
1572年12月22日
静岡県浜松市北区三方原町一帯
上村の戦い(かみむらのたたかい)
1572年12月28日
岐阜県恵那市上矢作町
元亀3年11月に岩村城が武田方の手に渡ると、織田信長は遠山氏と東美濃の国衆に奪還を命じた。
12月28日、明智城主の遠山景行を総大将とし、小里城主・小里光次、飯羽間城主の遠山友忠、苗木城の遠山友勝ら合わせて5,000の兵が岩村城に迫ると、岩村城から打って出てきた武田方の秋山虎繁の軍勢と美濃上村(岐阜県恵那市上矢作町)で衝突する。
この戦いで織田方は敗れ、小里光次ら多くの将を失い、大将の遠山景行は漆原の山中にて自刃した。
野田城の戦い(のだじょうのたたかい)
1573年1月11日 ~ 2月17日
愛知県新城市豊島本城
元亀4年(1573年)、三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄は30000余の兵を率いて本坂峠を越えて三河に侵入すると、正月11日から野田城を攻撃する。
野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。
しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。
武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。
城内の水の手を切られ、2月17日に菅沼定盈は自身の切腹を条件に城兵の助命を嘆願し開城した。
ただ信玄は定盈の一命を助け、人質交換に用いている。
病を得ていた信玄は、4月12日、甲斐への帰途に信濃で陣没し、跡を子の勝頼が継ぐ。
長篠城の戦い(ながしのじょうのたたかい)
1573年7月20日 ~ 9月8日
愛知県新城市長篠
滝山城の戦い(たきやまじょうのたたかい)
1573年9月21日
愛知県岡崎市宮崎町
徳川家康の奥三河侵攻を機に、三河作手の亀山城の奥平貞能・信昌父子は、武田方から寝返ると亀山城を退いて滝山城に入る。
天正元年(1573年)9月21日、滝山城は武田方についた一族の奥平定包ら5000の軍勢に攻められるが、家康の家臣である本多広孝・康重父子らの加勢を得て、撃退することに成功した。
しかし、これにより貞能の離反が明白になったため、人質として甲府に送られていた貞能の子らは、三河鳳来寺で磔にされている。
明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)
1574年2月5日
岐阜県恵那市明智町
天正2年(1574年)2月、武田勝頼は織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。
このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。
明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠、明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。
犬居城の戦い(いぬいじょうのたたかい)
1574年4月6日
静岡県浜松市天竜区春野町
元亀4年(1573年)に長篠城を攻略した徳川家康は、遠江国内の武田家の支配下にある諸城を攻略に乗りかかる。
天正2年(1574年)4月、家康は浜松城を出陣し、大久保忠世を案内役に、水野忠重・大須賀康高・渡辺守綱・安藤直次らを率いて、武田家から離反した天野景貫が守る犬居城を攻撃した。
武田家からの援軍が得られず、武田家からの援軍が得られず犬居城から出撃し、徳川軍が攻め詰められているところを奇襲した。
悪天候も味方し奇襲が成功する。
徳川軍は撤退時に大久保忠世や榊原康政らが殿軍を務め、奮戦した。
その後、天正4年(1576年)7月に家康は再び天野景貫を攻め、犬居城を攻略している。
高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)
1574年5月12日 ~ 6月17日
静岡県掛川市上土方嶺向
長篠城の戦い(ながしのじょうのたたかい)
1575年4月21日 ~ 5月20日
愛知県新城市長篠
設楽原の戦い(したらがはらのたたかい)
1575年5月21日
愛知県新城市長篠一帯
設楽原古戦場 馬防柵
この合戦に登場する武将
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内藤昌豊 (ないとうまさとよ)
武田家臣。武田四名臣の1人。武田信繁の死後、主君・信玄の副将格となる。武略に優れ、箕輪城主として西上野方面の治政を担当した。長篠合戦で戦死した。
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武田信玄 (たけだしんげん)
甲斐守護。信虎の嫡男。苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
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奥平貞能 (おくだいらさだよし)
今川家臣。桶狭間合戦後、徳川家に仕える。掛川城攻めや姉川合戦に従軍した。一時武田信玄に属すが、信玄の死後は徳川家に帰参し、長篠合戦で活躍した。
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山県昌景 (やまがたまさかげ)
武田家臣。武田四名神の1人。兄・飯富虎昌と同様、軍装を赤で統一。内政・軍事・外交全般で主君・信玄を補佐した。長篠合戦で全身に銃弾を浴び戦死した。
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菅沼定盈 (すがぬまさだみつ)
今川家臣。野田城主。桶狭間合戦後、徳川家に仕える。武田信玄の三河侵攻では一族の多くが信玄に寝返る中、一貫して徳川家に属し、居城を攻め落とされた。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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秋山信友 (あきやまのぶとも)
武田家臣。伊那衆を統率する。徳川家康に「武田軍の猛牛」と評されたほどの猛将。岩村城に籠城して織田信長軍と戦うが、敗れて捕虜となり、磔刑にされた。
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織田信勝 (おだのぶかつ)
信秀の次男。名は信行とも。うつけと呼ばれた兄・信長に対し、利発で家中の評判が良かった。林秀貞らに擁立されて家督を争うが、清洲城で信長に殺された。
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おつやの方 (おつやのかた)
織田信長の叔母。遠山景任の妻。嗣子なく夫が病疫したため、岩村城主となる。武田信玄の西上作戦が始まると、秋山信友と婚姻し、武田家に寝返った。
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遠山友忠 (とおやまともただ)
美濃の豪族。苗木城主。友勝の子。織田家に従って武田家と戦う。信玄の娘婿・木曾義昌を織田家に寝返らせた。のちに森長可と争って出奔、徳川家康を頼る。
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遠山友勝 (とおやまともかつ)
美濃の豪族。苗木城主。遠山家は遠山庄を領した加藤景朝(源頼朝に仕えた景廉の子)を祖とする。のちに「遠山七家」が諸城に拠って東美濃に勢威を張った。
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奥平信昌 (おくだいらのぶまさ)
徳川家臣。貞能の子。一時武田信玄に属すが、信玄の死後、帰参。長篠合戦では長篠城を死守し勝利に大きく貢献した。その功により、家康の娘・亀を娶った。
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本多康重 (ほんだやすしげ)
徳川家臣。元服に際し、家康から偏諱を受ける。掛川城攻めで初陣を飾り、以後多数の戦いに参陣した。特に長篠の戦いにおける奮戦で名高い。
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武田勝頼 (たけだかつより)
甲斐の戦国大名。信玄の四男。家督相続後は強硬策で領国を広げるが、長篠合戦での大敗により家臣団が瓦解。織田軍に追い詰められ、天目山で自害した。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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大久保忠世 (おおくぼただよ)
徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。
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水野忠重 ( みずのただしげ)
三河の豪族。兄・信元が謀反を疑われ殺されると、刈谷城に入る。関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、戦前の酒宴で加賀井重望と酔って口論となり、殺害された。
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渡辺守綱 (わたなべもりつな)
徳川家臣。各地を転戦して戦功を立て、「槍の半蔵」の異名をとる。関ヶ原合戦には旗本として参陣。晩年は尾張徳川家の家老となり、当主・義直を補佐した。
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安藤直次 (あんどうなおつぐ)
徳川家臣。小牧長久手の戦いで池田恒興や森長可を討つ武功を上げた。徳川家康側近となり、家康十男・頼宣の付家老として大坂の陣に出陣。諸軍を統制した。
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榊原康政 (さかきばらやすまさ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の功を立てた。晩年、「老臣権を争うは亡国の兆し」と老中への就任を辞退した。
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天野景貫 (あまのかげつら)
今川家臣。犬居城主。田原本宿の合戦で功を立てた。主家滅亡後は武田家に仕え徳川家と戦う。武田家滅亡後は北条家に属し、佐竹家との戦いで功を立てた。
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馬場信春 (ばばのぶはる)
武田家臣。武田四名臣の1人。多くの合戦に参加し一度も負傷せず「不死身の鬼美濃」と呼ばれた。長篠合戦の際に殿軍として主君・勝頼の逃亡を助け、戦死。
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禰津元直 (ねづもとなお)
武田家臣。もとは信濃の豪族で、信虎と戦うが敗北。諏訪頼重を通じて所領安堵を受ける。のち長篠の戦いに出陣し、討死した。信玄の側室・禰津御寮人の父。