織田信長の越前一向一揆鎮圧
織田信長の越前一向一揆鎮圧
1574年1月
七里頼周と織田信長
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一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)
1574年1月19日 ~ 20日
福井県福井市安波賀町・城戸ノ内町
朝倉氏の滅亡後、織田信長に越前侵攻の功績から越前守護代に抜擢された朝倉遺臣の桂田長俊(前波吉継)は、名前も信長から一字「長」を貰い受けて桂田長俊と改めていた。
しかし、改名後まもなく失明する。
さらに同じ朝倉遺臣で越前府中城主となった富田長繁は長俊が守護代になったことを妬み対立姿勢を示した。
天正2年(1574年)正月19日、長繁は突如一向一揆を迎合した3万余の大軍で長俊の居城のある一乗谷に侵攻し、翌20日に長俊を討ち取ると、三芳谷に逃れた母や嫡男の新七郎らも捕縛され殺害してしまう。
信長は、羽柴(豊臣)秀吉らに越前敦賀で一向一揆の動きに備えさせたが、長繁を討つ余力はなかった。
当時失明をし、結果的に落命にまで至った理由について、『朝倉記』は「神明ノ御罰也」と評されており、『信長公記』でも「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」と評している。
長泉寺山の戦い(ちょうせんじやまのたたかい)
1574年2月18日
福井県鯖江市長泉寺町
木ノ芽峠城の戦い(きのめとうげじょうのたたかい)
1575年8月15日
福井県南条郡南越前町二ツ屋
鉢伏城の戦い(はちぶせじょうのたたかい)
1575年8月15日
福井県南条郡南越前町二ツ屋
織田信長の侵攻を木ノ芽峠で阻止しようとしていた本願寺方は、木ノ芽峠城の周囲の城にも籠城していた。
天正3年(1575年)、織田信長の部将である金森長近・原政茂が美濃の各峠口から越前に攻め入ってきたため、大野郡司となっていた杉浦玄任は西光寺・常楽寺・照護寺など本願寺末の寺院に率いられた2500余の一向一揆勢を率いて木ノ芽峠城の支城の一つである鉢伏山城に籠城し、これを迎え撃った。
しかし信長の大軍の前に裏切りや逃亡者が相次ぎ大敗。
玄任はここで討死し8月15日に落城する。
落城後阿波賀三郎・与三兄弟は降伏したが、信長は赦さず塙直政に命じて自刃させた。
龍門寺城の戦い(りゅうもんじじょうのたたかい)
1575年8月15日
福井県越前市本町
木ノ芽峠城や鉢伏城の戦いに敗れて越前府中に敗走した一向一揆勢は、すでに海路から府中に入っていた羽柴秀吉・明智光秀らに討ち取られてしまう。
8月15日の夜、織田勢は一揆勢の大将・三宅権之丞が守る府中の龍門寺城を奇襲して占拠すると、ここを信長の本陣とした。
こののち数万人の一向一揆勢が虐殺されたといい、信長自身が書状において「府中は死がい計にて、一円あき所なく」と報告している。
越前制圧後に信長は、柴田勝家配下の前田利家に府中城、佐々成政に小丸城、不破光治に龍門寺城を与え入らせた。
豊原寺の戦い(とよはらじのたたかい)
1575年8月16日
福井県坂井市丸岡町豊原
下間頼照は、天台宗の豊原寺に立て籠もっていた。
織田信長の大軍が再び越前に雪崩れ込むと、天正3年(1575年)8月16日、「豊原三千坊」と謳われた豊原寺の数百の堂舎を信長は焼き払い、頼照は海路から加賀に逃れようとする。
しかし、頼照は同じ浄土真宗でも本願寺派と対立する真宗高田派の熊坂専修寺門徒に発見され、首を討たれた。
これにより越前一向一揆は壊滅した。
この合戦に登場する武将
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富田長繁 (とみたながしげ)
朝倉家臣。主家滅亡後は織田家に仕え、長島一向一揆の討伐戦で功を立てた。のちに織田家での待遇に不満を持って謀叛を起こすが、味方に撃たれて死去した。
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前波吉継 (まえばよしつぐ)
朝倉家臣。織田信長の越前侵攻軍にいち早く降り、道案内を担当した。この功によって越前守護代となるが、これを不服とした富田長繁に攻められ、敗死した。
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七里頼周 (しちりよりちか)
加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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金森長近 (かなもりながちか)
織田家臣。赤母衣衆の1人。柴田勝家に従い北陸平定に貢献。勝家の死後は蟄居するが、のち豊臣秀吉に仕えた。茶の湯に秀で、利休七哲の1人に数えられる。
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原長頼 (はらながより)
織田家臣。柴田勝家の与力となる。賤ヶ岳合戦では柴田軍の先鋒として奮戦し、戦後、豊臣家に仕える。関ヶ原合戦で西軍に属して活躍したが、戦後自害した。
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塙直政 (ばんなおまさ)
織田家臣。赤母衣衆の1人。のちに原田姓を名乗る。主君・信長が蘭奢待を賜った際は、その奉行を務めた。石山本願寺攻めの際、一揆勢に攻められ戦死した。
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杉浦玄任 (すぎうらげんにん)
本願寺の坊官。加賀一向一揆の大将。門徒を率いて、朝倉軍や上杉軍と互角に渡り合う。亥山城に入った際に作らせた掘水が、「本願清水」の始まりとされる。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
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不破光治 (ふわみつはる)
斎藤家臣。主家滅亡後は織田家に属す。主君・信長の馬廻を務め、各地で活躍した。のちに柴田勝家の目付として越前に赴く。本能寺の変後は勝家に属した。
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柴田勝豊 (しばたかつとよ)
柴田家臣。叔父・勝家の養子となる。長浜城主を務めた。のちに勝家と対立し、その事を知った羽柴秀吉に攻められ、降伏した。賤ヶ岳合戦の直後、病死した。
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下間頼照 (しもつまらいしょう)
本願寺の坊官。法主・顕如の命で越前の一向宗門徒を指導し、織田信長を苦しめた。のちに信長が比叡山や長島と同じ焦土化作戦をとったため敗北、殺された。