織田信長の伊賀平定
織田信長の伊賀平定
1578年7月
滝野吉政と織田信雄
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丸山城の戦い(まるやまじょうのたたかい)
1578年7月25日
三重県伊賀市下神戸
天正5年(1577年)の森城の戦いに勝利をおさめた伊勢を掌握した北畠(織田)信雄は、次に伊賀の平定を図る。
天正6年(1578年)2月、そうしたなか伊賀国比奈知の郷士である下山甲斐が北畠信雄に伊賀への案内を申し出てきたため、信雄は滝川勝雅 (雄利) に命じて伊賀丸山に城を築かせる。
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。
それによると、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。
伊賀郷士11名が集まり、丸山城の完成までに攻撃することを決めた。
7月25日、伊賀比土の今中将監や猪田の森田浄雲らによって完成間近の丸山城を奇襲されてしまう。
勝雅はわずかな手勢を率いて脱出し、伊賀衆は丸山城を焼き払った。
鬼瘤峠の戦い(おにこぶとうげのたたかい)
1579年9月17日
三重県伊賀市奥馬野周辺
国見山砦の戦い(くにみやまとうげのたたかい)
1581年9月3日
三重県伊賀市種生国見
雨請山砦の戦い(あまごいやまとりでのたたかい)
1581年9月3日
三重県伊賀市下友田
蒲生賊秀
WIN
藤林長門守
LOSE
比自山砦の戦い(ひめやまとりでのたたかい)
1581年9月10日
三重県上野市長田
柏原城の戦い(かしわらじょうのたたかい)
1581年10月10日
三重県名張市赤目町柏原
この合戦に登場する武将
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森田浄雲 (もりたじょううん)
伊賀の豪族。猪田郷を所領とした。豪族連合の中心人物の1人という。織田信長の伊賀侵攻軍に対し、一之宮城を守って奮戦したが衆寡敵せず落城、戦死した。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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滝野吉政 (たきのよしまさ)
伊賀の豪族。柏原城主。貞清の子。織田信長の伊賀侵攻軍に対して、国内の豪族連合軍を率いて頑強に抵抗したが敗れ、戦後、筒井順慶に居城を明け渡した。