織田信長の播磨・但馬平定
織田信長の播磨・但馬平定
1577年11月
竹中半兵衛と別所長治
織田信長は播磨・但馬平定を羽柴秀吉に命じます。
このころ播磨や但馬には、安芸の毛利氏の勢力がおよびつつあり、天正5年(1577)10月に播磨姫路城に入った秀吉は、播磨の国衆を毛利方から離反させることに成功します。
秀吉は播磨を平定したかに見えたが、天正6年播磨の有力大名である三木城の別所長治が本願寺や荒木村重や毛利家などと同調し信長に反旗を翻したことで、播磨平定は振り出しに戻ってしまいます。
信長の命を受けた羽柴秀吉は、3月29日に2万7000余の大軍で三木城を包囲すると三木城に相対する東方の平井山に本陣をおきました。
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岩洲城の戦い(いわすじょうのたたかい)
1577年11月
兵庫県朝来市山口
竹田城の戦い(たけだじょうのたたかい)
1577年11月
兵庫県朝来市和田山町竹田
雲海の上に聳える天空の城・竹田城
福原城の戦い(ふくはらじょうのたたかい)
1577年11月27日 ~ 12月1日
兵庫県佐用郡佐用町佐用福原
上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)
1577年11月29日 ~ 12月3日
兵庫県佐用郡佐用町上月
野口城の戦い(のぐちじょうのたたかい)
1578年4月3日 ~ 6日
兵庫県加古川市野口町野口
神吉城の戦い(かんきじょうのたたかい)
1578年6月27日 ~ 7月20日
兵庫県加古川市東神吉町
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。
6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。
7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。
三木城の戦い(みきじょうのたたかい)
1578年3月29日 ~ 1580年1月17日
兵庫県三木市上の丸町
志方城の戦い(しかたじょうのたたかい)
1578年7月 ~ 8月10日
兵庫県加古川市志方町志方町
神吉城を落とした織田勢はそのまま北西に位置する志方城を攻めた。
織田家の軍隊は次男・織田信雄を大将に細川藤孝・羽柴秀吉ら約8,000。
別所氏の一族である志方城主の櫛橋祐貞は、わずか1,000の兵で籠城を続ける。
城から打って出るなど織田勢に攻撃を仕掛けるなどするも、8月10日に不利を悟った祐貞は降伏開城した。
英賀城の戦い(あがじょうのたたかい)
1580年4月1日 ~ 24日
兵庫県姫路市飾磨区英賀
三木城を落とした羽柴秀吉は天正8年(1580年)閏3月29日に英賀城の周囲に付城を構築し、4月1日より攻撃を開始。
北に沼沢があり東西を川に挟まれ南は海に面する英賀城は天険の要害であったため、秀吉は海上から奇襲をかけた。
これにより4月24日に英賀城は落城し、城主の三木通秋は、夜陰に乗じて城を脱出すると、九州に落ちていったという。
落城の際、城のみならず町全体が火の海となり、一夜にしてすべてが焼失したといわれている。
英賀神社には、失われた英賀城の土塁が今も残されている。
長水城の戦い(ちょうすいじょうのたたかい)
1580年5月9日 ~ 10日
兵庫県宍粟市山崎町宇野
英賀城を落とした羽柴秀吉は天正8年(1580年)4月24日に、依然として織田方に抵抗を続ける宇野政頼・祐清父子を討つことにした。
まず支城の篠の丸城を攻め落とす。
天険の要害である長水山城を力攻めをせず、麓を焼き払い要所に砦を築くいて完全包囲した。
蜂須賀小六らの兵を残して秀吉は三木氏攻略のために姫路に引き返している。
城兵の疲労をまっていた秀吉軍は、5月9日に至り総攻撃を開始、翌10日に城内の内通者によって、長水城は火を発し落城した。
城主の宇野政頼・祐清父子は、ひそかに城を脱出して鷹ノ巣を越えて千草に到着したが、おりからの雨で千種川は洪水で渡ることが出来ず、 秀吉軍の蜂須賀正勝・荒木平大夫・神子田半左衛門らの軍勢に追われ、宇野一族をはじめ長水勢はことごとく討死した。
これにより播磨は秀吉によって平定されたのである。
有子山城の戦い(ありこやまじょうのたたかい)
1580年5月16日
兵庫県豊岡市出石町内町
天正8年(1580年)5月10日に長水城を落として播磨を平定した羽柴秀吉は、勢いに乗じて因幡へ侵入する。
このとき背後を固めるため、弟の羽柴秀長に但馬の平定を命じ、秀長は宮部継潤らとともに山名祐豊・堯熙父子が拠る但馬の有子山城を攻撃した。
山名祐豊は、当初は織田方に属していたが、天正3年(1575年)に重臣・太田垣氏らが毛利氏の吉川元春と和睦してしまったため、織田氏に離反し毛利氏についたとみなされていた。
父と意見の合わなかった堯熙は、5月16日の開城前に隣国の因幡国へ逃れ、有子山城に残った父の祐豊は21日に病没したという。
ここに但馬守護山名氏は滅亡したのである。
この合戦に登場する武将
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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太田垣輝延 (おおたがきてるのぶ)
山名家臣。竹田城主。太田垣家は山名四天王の一。織田家から毛利家に寝返ったため、羽柴秀吉に攻められる。一時は居城を奪還するがのちに敗れ、逃亡した。
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竹中半兵衛 (たけなかはんべえ)
斎藤家臣。わずか16人で主家の居城・稲葉山城を乗っ取る。その卓抜した知略を羽柴秀吉に見込まれ、軍師となった。秀吉の中国攻めに従軍し、陣中で病没。
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黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
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神吉頼定 (かんきよりさだ)
別所家臣。神吉城主。神吉家は赤松家の庶流。羽柴秀吉の中国侵攻軍に対して頑強に抵抗したが、敗れて戦死。居城は焼け落ち、将兵の大半が焼死したという。
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別所長治 (べっしょながはる)
播磨の豪族。三木城主。安治の嫡男。織田信長の中国征伐軍の先鋒となるが、のち敵対。羽柴秀吉軍と約2年に及ぶ籠城戦の末、城兵の助命を条件に自害した。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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三木通秋 (みきみちあき)
播磨の豪族。英賀城主。三木家は河野家の庶流。織田信長の石山本願寺攻めでは本願寺に協力した。羽柴秀吉の中国侵攻軍に対抗するが敗れ、九州に逃亡した。
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蜂須賀小六 (はちすかころく)
豊臣家臣。墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の参謀として民政・調略に手腕を発揮。四国征伐後、長宗我部家への抑えとして阿波徳島18万石を領した。
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宇野政頼 (うのまさより)
赤松家臣。長水城主。宇野家は赤松家と同じ村上源氏の出身。尼子晴久の播磨侵攻軍に降り、所領を安堵された。のち羽柴秀吉の中国侵攻軍に敗れ、自害した。
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宇野祐清 (うのすけきよ)
赤松家臣。長水城主。政頼の子。宇野家は赤松家のもとで守護代を務めた。のち毛利家に属して織田家に対抗したが、羽柴秀吉の中国侵攻後に敗れ、自害した。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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宮部継潤 (みやべけいじゅん)
浅井家臣。はじめ比叡山の僧。主家滅亡後は織田信長に属す。羽柴秀吉率いる中国征伐軍の先鋒を務め、因幡鳥取城主となった。晩年は秀吉の御咄衆となった。
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山名祐豊 (やまなすけとよ)
但馬守護。出石城主。叔父・誠豊の養子となって家督を継ぐ。弟・豊定を因幡に派遣し、但馬・因幡両国を支配した。のち羽柴秀吉に攻められ敗北、降伏した。