今日は何の日?

  • ● 1546年 北条氏康が上杉憲政、上杉朝定らを破る
  • ● 1555年 織田信長が織田信友を討ち清洲城を奪取、以後の居城とする
  • ● 1556年 斉藤道三が対立していた息子・義龍に敗れ討死
  • ● 1546年 北条氏康が上杉憲政、上杉朝定らを破る
  • ● 1555年 織田信長が織田信友を討ち清洲城を奪取、以後の居城とする
  • ● 1556年 斉藤道三が対立していた息子・義龍に敗れ討死

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」の攻略サイト

この人誰?

山本勘助

九州の関ヶ原

1600年9月

黒田官兵衛と大友義統

目次[非表示]

木付城の戦い(きつきじょうのたたかい)

1600年9月10日 ~ 12日

大分県杵築市杵築

岐部玄達

吉弘七左右衛門

柴田統生

野原太郎右衛門

LOSE

有吉立行

久野次左衛門

曾我部五右衛門

母里与三兵衛

時枝平太夫

野村市右衛門

後藤太郎助

WIN

1600年、関ヶ原の戦いの際に、大友義統は西軍に属して再起を図ります。
西軍の総大将である毛利輝元の支援を受けて長門下関から豊後立石に渡海した大友吉統は、木付城(杵築城)を攻撃する。

この木付城は、丹後宮津城主・長岡(細川) 忠興の飛び地だったところで、忠興の家臣である松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせており豊後において唯一の東軍方だった。

豊後に上陸すると、1600年9月10日夜、吉弘統幸ら岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生、200騎が木付城を攻める。

二の丸にいた野原太郎右衛門が大友勢に内通して城下に火が掛けられます。

大友勢の攻撃を受けた松井康之・有吉立行らは、200余の兵とともに防戦に努める一方、豊前中津城の黒田如水(黒田官兵衛)に救援を安請する。

9月9日に大友勢の立石布陣の報を受けた如水は杵築城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約千人。二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約千人)を派遣し自らも追って出陣した。
先遣隊は10日に赤根峠を越え、12日に木付に到着、如水の本隊を待てとの指示に従わずに13日の朝より鉄輪で合流した黒田先遣隊と杵築勢は石垣原へ兵を進めた。

如水の本隊は先遣隊と同日の9日に中津城を出陣し、宇佐高森城(黒田孝利)・高田城(竹中重利)を経て10日に赤根峠を越えて国東に進出し富来城(垣見一直)を包囲した。
当時旗幟を鮮明にしていなかった重利は、子の竹中重義に兵200人を付けて黒田軍に従軍させた。

大友軍が杵築城を攻撃すると、黒田軍は攻撃予定であった富来城(垣見一直)を後回しにして、合戦のあった13日には頭成まで家臣の井上九郎兵衛・時枝平太夫を進出させた。
黒田軍本隊は12日には安岐城を攻め、13日に打って出てきた熊谷直盛の軍を撃破し、杵築城の救援に向かった。

松井康之・有吉立行らは、残すは本丸のみと言う所まで押し込まれましたが、松井康之が相原山に伏兵を置いて柴田統生を討取るなど反撃します。

落城が迫ったとき、黒田官兵衛の援軍が着陣したため、大友勢は兵を退いた。

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)

1600年9月13日

大分県別府市北石垣・南石垣一帯

有吉立行

野村市右衛門

WIN

宗像鎮統

田原親賢

LOSE

長岡(細川)忠興の属城の豊後木付城を攻めていた大友義統は、黒田如水(官兵衛)からの援軍が迫るのをみて兵を退いた。
そこで、木付城を守っていた忠興の家臣である松井康之・有吉立行らは、黒田勢とともに木付城を出陣し、大友勢を討とうとした。

9月13日、出撃した木付勢は実相寺山に布陣。
黒田軍先遣隊の一番備は実相寺山と角殿山の間道を抜けて石垣原に布陣していた大友勢と昼頃から衝突し、木付勢も後に戦闘に加わった。

この衝突で大友勢の吉弘統幸は打ち破られたと見せかけて立石本陣近くまで退き、追ってきた黒田一番備は伏せていた宗像鎮統の攻撃と統幸の反撃により、黒田勢の久野次左衛門・曾我部五右衛門が討死。

今度は敗走する黒田勢を大友勢が実相寺近くまで追撃し、松井康之の陣に攻撃を掛けるが多勢と見て山麓の黒田軍の陣に矛先を変えてこれを圧倒した。
ここに黒田勢の二番備の野村市右衛門・井上九郎右衛門と木付勢が救援に駆けつけ大友勢を破った。

大友勢は吉弘統幸・宗像鎮統をはじめ500余が討ち取られ、14日には実相寺に到着した如水は首実検と軍議を行った。
同日、義統は敗戦を知って自刃しようとしたが田原親賢に諌められる。
義統は剃髪して法体となり、田原親賢を黒田軍の陣の母里友信(妻は宗麟娘)に派遣して如水に降伏し、石垣原の戦いは終了した。

宇土城の戦い(うとじょうのたたかい)

1600年9月15日 ~ 10月23日

熊本県宇土市神馬町

小鴨元清

小西如安

LOSE

関ヶ原において、東西の両軍が衝突していた9月15日、九州では東軍についた加藤清正が、 西軍の小西行長の居城である肥後宇土城を攻撃する。
このとき行長は大坂に出陣しており留守だったため、宇土城は弟の小西行景らが守っていた。

実は,関ヶ原合戦のほぼ40日前,清正家康から肥後や筑後を実力で軍事占領することを条件に両国の領有保障の約束を取り付けていたのです。

熊本方面から進軍した加藤軍は,石ノ瀬城(石小路町)を突破後,本町・新町などの城下町を焼き払い,宇土城に迫る。
清正自身は茶磨山(松山町)に本陣を置き,宇土城の南回りに兵を進め,かつて城があった西岳(西岡台,神馬町)から宇土城へ激しい攻撃を加えた。

小西行景は小鴨元清・小西如安らとともに寡兵ながら防戦に努めたが、関ヶ原での西軍の敗戦が明らかとなったため、10月23日、行景が自刃して開城されている。
こののち、宇土城の支城である八代城も開城した。

この戦いに勝利した清正行長の領地を引き継ぐことになったのです。

富来城の戦い(とみくじょうのたたかい)

1600年9月23日

大分県国東市国東町富来浦

上原新左衛門

WIN

LOSE

石垣原の戦いに勝利した黒田如水(官兵衛)は、勢いに乗じて国東半島の西軍方諸城の攻略に乗り出すと、9月23日から、豊後富来城を攻撃した。

城主の垣見家純は美濃大垣城に入っていたため、城代垣見一直らが防戦に努めていた。

城兵が500余だったにも関わらず10日間も籠城戦をするも、大垣城で主君の家純が討死したという報を受け開城した。
如水は、家臣の上原新左衛門を城番として入れ、10月4日、自身は富来を出発して豊前中津に戻った。

宮崎城の戦い(みやざきじょうのたたかい)

1600年9月29日 ~ 10月1日

宮崎県宮崎市池内町

権藤種盛

LOSE

東軍についた日向飫肥城主の伊東祐兵は、黒田如水の支援を得て、老臣・稲津掃部助重政に命じて、日向松尾(縣)城主・高橋元種の属城である宮崎城を攻めさせた。
宮崎城の権藤種盛は寡兵をもって防戦に努めたが一日で落城し、権藤種盛は自刃する。
この宮崎城の戦いの翌日、大垣城の戦いに兄の秋月種長と共に参陣していた元種は、寝返って本領安堵となった。
そのため宮崎城は元種に返還され、重政は東軍を攻めた咎で誅殺されてしまう。

柳川城の戦い(やながわじょうのたたかい)

1600年9月 ~ 10月25日

福岡県柳川市本城町

黒田如水加藤清正鍋島直茂らとともに、筑後柳川城の立花宗茂を包囲する。
宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦っており、島津氏とともに大坂を脱出して帰国したのち、居城の柳川城に籠城していた。
柳川城の堅牢ぶりや宗茂の猛勇を知る3将は宗茂を説得し、10月25日降伏開城を受諾させた。
その後宗茂は、一命を助けられたうえで改易されたが、のち再び大名に取り立てられ柳川藩10万石余の藩主となっている。

戦国時代の合戦一覧に戻る

この合戦に登場する武将

ページトップへ

旧国名を見る

閉じる

※地図上にマウスを当ててみてね

※地図上をタップしてみてね

名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬