松永久秀の謀反
松永久秀の謀反
1577年10月
織田信忠と松永久秀
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片岡城の戦い(かたおかじょうのたたかい)
1577年10月1日
奈良県北葛城郡上牧町
天正5年(1577年)10月1日、織田信忠率いる大軍は信貴山近くの法隆寺に布陣する。
この日先陣の長岡(細川)藤孝・明智光秀・筒井順慶ら5000余の兵で信貴山城の支城の片岡城を攻撃した。
片岡城はもともと筒井順慶と結ぶ片岡春利の居城であったが、永禄12年(1569年)、松永久秀に奪取されていたものである。
片岡城は1000兵で守っていたが織田勢の猛攻により海老名勝正(友清)・森秀光(正友)以下150余人が討死し落城した。
10月3日、信長に「9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった」との報告が柴田勝家から直接安土城に入った。
信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込み4万の大軍となっている。
信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)
1577年10月5日 ~ 10日
奈良県生駒郡平群町信貴山
この合戦に登場する武将
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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松永久秀 (まつながひさひで)
三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。