御館の乱
御館の乱
1578年9月
上杉景虎と上杉景勝
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坂戸の戦い(さかどのたたかい)
1578年9月12日
新潟県南魚沼市坂戸
天正6年(1578年)9月、上杉景虎の実兄である北条氏照・氏邦兄弟が三国峠を越えて越後に侵入すると、樺沢城を拠点として上杉景勝の属城となっていた坂戸城を攻撃しはじめる。
坂戸城は上杉氏の関東口守備の番城で、景勝に従う坂戸城主の深沢利重や義兄弟にあたる栗林政頼ら、同じく国境を守る樋口兼一・登坂安忠・登坂与五郎らが防御を固めていた。
登坂安忠の戦死もあった防戦に努めたため、北条勢はこの坂戸城を落とすことができなかった。
深沢利重と栗林政頼は共に自ら出兵しなかった事を景勝から叱責を受けている。
こののち北条勢は、逆に拠点の樺沢城を落とされることになる。
御館の戦い(おたてのたたかい)
1579年2月1日 ~ 3月18日
新潟県上越市五智
鮫ヶ尾城の戦い(さめがおじょうのたたかい)
1579年3月24日
新潟県妙高市宮内
大葉沢城の戦い(おおばさわじょうのたたかい)
1579年6月20日
新潟県村上市大場沢
天正7年6月20日、上杉景勝旗本の本庄繁長が鮎川盛長の守る越後大葉沢城を攻撃する。
鮎川氏は越後本庄城に拠る本庄氏の庶流であったが、本庄氏と対立を繰り返しており、御館の乱では上杉景虎についていた。
このとき盛長は敗れるも、のちに景勝への帰参が許され、 慶長3年(1598) に主家が会津に移封となると上杉氏に従い会津に移った。
栃尾城の戦い(とちおじょうのたたかい)
1580年4月22日
新潟県長岡市栃尾町
天正8年(1580年)4月に上杉景勝は春日山城を出立し、御館の乱で上杉景虎方につき景虎の死後も抵抗を続けていた本庄秀綱が守る越後栃尾城を攻めた。
かつて上杉謙信が一時在城していた栃尾城は堅城で知られており、秀綱は防戦に努めるも、4月22日に景勝方の総攻撃により落城した。
本庄秀綱は栃尾城を棄て、会津に落ち延びた。
三条城の戦い(さんじょうじょうのたたかい)
1580年7月7日
新潟県三条市
この合戦に登場する武将
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北条氏照 (ほうじょううじてる)
北条家臣。氏康の次男。軍事・外交の両面で兄・氏政を補佐。おもに下野や下総方面の攻略を担当した。小田原落城後、豊臣秀吉の命により、兄とともに自害。
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北条氏邦 (ほうじょううじくに)
北条家臣。氏康の三男。上杉家との和睦を成立させた。豊臣秀吉の小田原征伐では出撃を唱えるが退けられる。前田利家に居城・鉢形城を落とされ、降伏した。
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上杉景勝 (うえすぎかげかつ)
出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。
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上杉景虎 (うえすぎかげとら)
北条氏康の七男。越相同盟成立の際に越後に赴き、のちに上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱において義弟の上杉景勝と家督を争うが、敗死した。
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本庄繁長 (ほんじょうしげなが)
上杉家臣。村上城主。叔父・小川長資を討って居城を奪回、家督を継ぐ。武田信玄と結んで謀叛を起こすが、許されて帰参する。以後は各地の合戦で活躍した。