織田信長の中国平定
織田信長の中国平定
1579年3月
毛利輝元と羽柴秀吉
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三星城の戦い(みつぼしじょうのたたかい)
1579年3月 ~ 5月
岡山県美作市明見
天正5年(1577年)の天神山城の戦いで主君の浦上宗景を滅ぼした宇喜多直家は、次に後藤勝基が守る美作三星城を天正7年(1579年)3月に攻めた。
後藤勝基は主君を裏切った宇喜多家に反発する旧浦上家臣を取り込み、主君亡き後も宇喜多家に抵抗し続けていました。
宇喜多勢は、まず支城の倉掛山を目指した。
三星城の後藤家臣である安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛らは、倉掛山に向かっている宇喜多勢を挟み撃ちすることを決め、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行の4人を荒木田村深山に潜伏させました。
この結果、宇喜多勢の延原景光の郎党17騎を討ち取る戦功をあげました。
宇喜多勢は鳥貝山まで退いてからすぐに、手薄になっていた三星城を奇襲します。
さらに宇喜多直家のもとから西尾文五郎が加勢し、延原景光は湯郷村長光寺の住職を味方につけて、後藤家の家臣への調略を依頼した。
この住職と親しかった後藤方の安藤相馬が内応に応じる。
延原景光は、5月に大軍で再び三星城を攻めると、内応していた安東相馬が城内より火を掛けたため三ツ星城は落城。
後藤勝基はこれまで着いてきてくれた家来に礼を述べ、居郷へ引き揚げるよう申渡すと城から落ち延び、その後長内村の隠坂まで来たところで自刃した。
祝山城の戦い(いおうやまじょうのたたかい)
1579年10月 ~ 1580年12月
岡山県津山市吉見
天正7年(1579年)10月、織田信長と結んだ宇喜多直家は、織田家臣の羽柴秀吉とともに、毛利輝元の属城である美作祝山城(医王山城)を攻撃した。
祝山城には毛利輝元から在番衆として湯原春綱が送り込まれ、福田盛雅・塩谷元真らとともに籠城していた。
翌天正8年(1581年)1月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三者は連名で湯原春綱に対して医王山城在番への労をねぎらい、4月にはさらに小川元政を派遣して、春綱と共同して敵に当たるよう命じています。
6月、秀吉を通じて織田信長は、湯原春綱に「出雲一国を与える」という条件で寝返ることを求めたが、春綱はこの誘いを輝元に報告して忠節を示している。
宇喜多・織田勢の攻撃が激化し、在番衆は輝元に後詰を要請する。
これを受けて自ら出陣した輝元は、攻略した備中忍山城を拠点に美作へ向かった。
しかし、毛利勢は宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達できず、12月に春綱らはついに降伏開城した。
忍山城の戦い(しのぶやまじょうのたたかい)
1579年12月24日 ~ 25日
岡山県岡山市北区上高田
宇喜多直家によって美作祝山城が包囲されるなか、毛利輝元は小早川隆景らとともに大軍を率いて後詰に向かう。
天正7年(1579年)11月16日、宇喜多直家の属城となっていた備中忍山城の近くに布陣した輝元は、伯耆から吉川元春が到着するのを待って、12月24日から忍山城に総攻撃をかける。
毛利勢の吉川経言は宇喜多勢を追い返しその勢いで山下を焼き打ち城を取り囲み、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた。
城兵は防戦に努めたものの衆寡敵せず、翌25日には落城した。
辛川の戦い(からかわのたたかい)
1580年3月13日
岡山県岡山市北区西辛川
宇喜多直家に属城の美作祝山城を包囲された毛利輝元は、自ら祝山城の救援に向かったが、宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達することができないでいた。
そのため輝元は、小早川隆景率いる15000の軍勢に直家の本領である備前に侵攻させたのである。
このとき病床にあった直家に代わり、弟で富山城主の宇喜多忠家が総大将ととなり、宇喜多家の宿老で辛川城の戸川秀安・達安らとともに備前・備中国境に近い備前辛川で小早川勢を迎え撃つ。
辛川城に近い一宮から富山城近くの矢坂まで、七段の陣を立てて防戦を張り、辛川村の北にある山陰には当時13歳で初陣であった戸川達安率いる一隊を忍ばせた。
天正8年(1580年)3月13日、備中高松城から加茂城を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。
激しいぶつかり合いとなるも、宇喜多勢はこの間を見て退却を開始。
小早川軍は深追いし辛川村を通り過ぎたあたりで、山陰に潜んでいた戸川達安隊が飛び出し、毛利軍を挟み撃ちにした。
総崩れとなった小早川軍は、備前から兵を退領き領国へと退却していった。
この毛利軍の大敗は「辛川崩れ」と呼ばれる。
高城の戦い(たかんじょうのたたかい)
1580年4月28日
岡山県岡山市北区建部町和田南
天正8年(1580年)3月、宇喜多直家は家臣の戸川秀安・達安らに命じて、毛利輝元と結んで宇喜多氏に抵抗を続ける竹内為能が守る美作高城を攻撃させた。
これに対し、竹内為能の要請を受けた輝元が援軍を高城に送ったため、宇喜多勢は攻めあぐねる。
4月28日には、直家が自ら兵を率いて高城に攻め寄せたが高城は堅城であり為能らが防戦に努めたため、落とすことはできなかった。
しかし、陣替えの隙を突いて再度侵攻してきた宇喜多氏に攻められ、高城二ノ丸の守将である岸氏勝が宇喜多氏に寝返ったこともあり落城。
竹内為能は籾村口に落ち延びた所を宇喜多勢に討ち取られた。
岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい)
1580年5月
鳥取県倉吉市岩倉
織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山陰に進出するなか、伯耆羽衣石城主・南条元続とその弟で伯耆岩倉城主・小嶋元清は、毛利氏から離反して織田氏に帰属。
このため天正8年(1580年)5月、毛利輝元は吉川元春を派遣した。
毛利軍は圧倒的な軍勢であったが、小嶋元清は南条氏らの協力もあり毛利勢を撃退することに成功した。
しかし天正10年(1582年)9月、攻勢を強めた毛利氏によって岩倉城は落城。
城主・小鴨元清は兄の南条元続らと京都もしくは播州に落ちのびたという。
羽衣石城の戦い(うえしじょうのたたかい)
1580年8月13日
鳥取県東伯郡湯梨浜町
鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)
1580年9月21日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城
麦飯山の戦い(むぎいやまのたたかい)
1581年2月21日
岡山県玉野市八浜町大崎
岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)
1581年6月25日
岡山県津山市中北上
中村頼宗
WIN
浜口家職
LOSE
鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)
1581年7月12日 ~ 10月25日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城から見る鳥取市街
馬山の陣(うまのやまのじん)
1581年10月27日 ~ 28日
鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津・上橋津
因幡鳥取城の救援のため伯耆に入った吉川元春の5000の軍勢は、天正9年(1581年)10月25日に馬山(茶臼山城)に陣をおくが、この日鳥取城は開城してしまう。
しかし元春は、毛利方の攻勢にさらされている羽衣石城や岩倉城を救援するため、秀吉が伯耆に侵入するとふんだ。
秀吉の軍勢は3万~6万と約10倍以上の兵力差があったとされるが、弔い合戦に臨む毛利方の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(或いは出雲)への退路を断ったことで背水の陣を敷いている。
吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、高いびきをかいて寝ていたという。
吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と交戦せずに11月8日に播州へ磨姫路城に戻った。
冠山城の戦い(かんむりやまじょうのたたかい)
1582年4月14日 ~ 25日
岡山県岡山市北区下足守
天正10年(1582年)3月、播磨姫路城を出陣して備前岡山城に着陣した羽柴秀吉は、備中高校城の清水宗治を勧降するが拒否されてしまう。
これにより高松城攻めを決めた秀吉は、秀吉率いる織田勢2万と宇喜多忠家率いる宇喜多勢1万で、4月14日、高松城の支城である備中冠山城を包囲した。
このとき城主・林重真は、清水宗治の娘を娶っており、備中半国を与えるという恩賞の約束を断ったという。
4月25日、城内から出火し、たちまち燃え広がって冠山城は混乱に陥り、織田・宇喜多勢の総攻撃もあり落城。
一番乗りを果たしたのは当時21歳の加藤清正で、毛利方の竹井将監を討ち取り、藤堂高虎も竹本幸之助を討ち取っている。
城主・林重真が自刃し、城兵300余が討死した。
宮地山城の戦い(みやじやまじょうのたたかい)
1582年4月14日 ~ 5月2日
岡山県岡山市北区足守
備中高松城主・清水宗治の攻略を決めた羽柴秀吉は、峰須賀正勝と黒田官兵衛らに高松城の支城にあたる備中宮地山城の乃美元信を誘降するよう命じるが、小早川隆景への忠義は揺らがず失敗する。
そのため秀吉は、4月14日から冠山城とともに宮地山城を包囲した。
4月25日に冠山城が落ちると、宇喜多直家の家臣・信原内蔵允が宮地山城の船木藤左衛門の内応に成功し、使者として宮路山城に入り和睦交渉が行われた。
そして5月2日、水の手を断たれていたこともあり元信は降伏し宮地山城を退去した。
これにより残る高松城の支城は鴨(加茂)城のみとなった。
鴨城の戦い(かもじょうのたたかい)
1582年5月2日
岡山県岡山市北区加茂
高松城の戦い(たかまつじょうのたたかい)
1582年5月7日 ~ 6月4日
岡山県岡山市北区高松
この合戦に登場する武将
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宇喜多直家 (うきたなおいえ)
浦上家臣。乙子城主。権謀術数の限りを尽くして敵を葬り去り、家中最大の勢力を築き上げる。最後は主君・宗景を追放して備前国を掌握した稀代の謀将。
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後藤勝元 (ごとうかつもと)
美作の豪族。三星城主。勝国の子。近隣豪族を支配下に置き、また尼子家や浦上家と友好を結んで、後藤家を隆盛に導いた。のち宇喜多直家に敗れて自害した。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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吉川元春 (きっかわもとはる)
毛利元就の次男。安芸の豪族・吉川家を継ぎ、山陰地方の攻略にあたる。不敗を誇った家中随一の猛将である一方、陣中で「太平記」40巻を写本したという。
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宇喜多忠家 (うきたただいえ)
宇喜多家臣。興家の子。兄・直家の創業に大いに貢献した。兄の死後は甥・秀家の後見人となる。朝鮮派兵の際は、豊臣軍総督を務める秀家に従って渡海した。
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戸川秀安 (とがわひでやす)
宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦や児島八浜合戦など多くの合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。のちに筆頭家老を務め、国政にも参画した。
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戸川達安 (とがわみちやす)
宇喜多家臣。秀安の嫡男。朝鮮派兵などで活躍した。熱心な日蓮宗徒で、切支丹の長船綱直らと対立。のちに内乱を引き起こして主家を退去、徳川家に仕えた。
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南条元清 (なんじょうもときよ)
南条家臣。南条宗勝の庶子。東伯耆の名門・小鴨家を継ぐ。朝鮮派兵の際、甥・元忠の讒言に遭い失脚し、小西行長に属す。関ヶ原合戦後は加藤清正に仕えた。
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南条元続 (なんじょうもとつぐ)
南条家8代当主。羽衣石城主。宗勝の嫡男。豊臣秀吉に仕え、九州征伐などに従軍した。病のため弟・元清に政務を任すが、小田原征伐には病の身で参加した。
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山名豊国 (やまなとよくに)
因幡守護。鳥取城主。豊定の三男。武田高信を討ち居城を奪回する。羽柴秀吉に属すが、毛利家に通じた家臣たちに追放された。のち、秀吉の御咄衆を務めた。
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穂井田元清 (ほいだもときよ)
毛利元就の四男。備中の豪族・穂井田家を継いだ。山中幸盛が拠る播磨上月城を攻略するなど、各地で功を立てた。のち毛利姓に戻り、長府毛利家の祖となる。
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吉川経家 (きっかわつねいえ)
毛利家臣。経安の子。山名豊国の追放を受け、因幡鳥取城に入り羽柴秀吉軍と戦う。しかし秀吉の「渇え殺し」戦法により敗れ、城兵の助命を条件に自害した。
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加藤清正 (かとうきよまさ)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。朝鮮派兵で活躍し「虎加藤」の逸話を残す。秀吉死後は石田三成と対立、関ヶ原合戦で東軍に属し、肥後熊本52万石を得た。
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藤堂高虎 (とうどうたかとら)
徳川家康ほか7人の主君に仕え、主君を変える度に知行を増やし、伊勢安濃津32万石を領す。合戦では常に先鋒を務め奮戦、また多くの城の普請を担当した。
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蜂須賀小六 (はちすかころく)
豊臣家臣。墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の参謀として民政・調略に手腕を発揮。四国征伐後、長宗我部家への抑えとして阿波徳島18万石を領した。
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黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。
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清水宗治 (しみずむねはる)
毛利家臣。高松城主。織田信長の中国征伐軍に頑強に抵抗したが、羽柴秀吉による「水攻め」に遭い苦戦を強いられる。城兵の助命を条件に和睦し、自害した。