長宗我部元親の伊予平定
長宗我部元親の伊予平定
1579年5月
長宗我部元親と西園寺公広
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三間表の戦い(みまおもてのたたかい)
1579年5月21日
愛媛県宇和島市三間町一帯
地蔵嶽城の戦い(じぞうがたけじょうのたたかい)
1580年1月
愛媛県大洲市大洲
天正7年(1579年)、地蔵嶽城主・宇都宮豊綱の家臣で菅田城主の大野直之は、長宗我部元親と結んで主君の豊綱を地蔵嶽城から追放し、城を乗っ取った。
これに危機感を覚えた伊予湯築城の河野通直は、毛利輝元に援軍を要請し、輝元から派遣された小早川隆景率いる援軍とともに地蔵嶽城を攻撃した。
毛利・河野勢の猛攻に耐えきれず、直之は降伏し、こののち宇都宮豊綱が再び城主に返り咲く。
河野通直は若年の武将ではあったが人徳厚ったため、大野直之は通直に降伏後その人柄に心従したという。
鎌田城の戦い(かまたじょうのたたかい)
1580年5月28日
高知県吾川郡いの町波川
鹿舗右近
勝賀瀬越後
WIN
波川清秀
LOSE
長宗我部元親の妹を室に迎えていた土佐波川城主・波川清宗は、天正8年(1580年)正月、地蔵嶽城の戦いで河野通直・小早川隆景に包囲されている大野直之を救援するため、伊予に派遣された。
しかし清宗は隆景と和睦して撤退したため、元親の勘気にふれ山路城を没収され、本拠地の波川に蟄居させられた。
元親の処置を不満に思った清宗は謀叛を画策。しかしこれに応じたのは一条内政と娘婿の北之川親安だけだった。
このことが元親に発覚したことにより剃髪して高野山に逃れようと、阿波海部の香宗我部親泰を頼ったが許されず、3月28日に清宗は阿波海部で切腹させられた。
元親はそれだけでは済まさず波川一族の征伐を決める。
許されないこと知った波川一族は清宗の嫡男・清秀を大将とし土佐鎌田城に籠城した。
5月28日、長宗我部家臣の鹿舗右近・勝賀瀬越後ら3000余の軍勢は仁淀川を越えて鎌田城の攻撃を開始。
波川軍は弓や鉄砲で渡河する長宗我部軍を攻撃したが食い止めることが出来ず、城への侵入を許し全滅した。
三瀧城の戦い(みたきじょうのたたかい)
1580年12月 ~ 1581年1月6日
愛媛県西予市城川町窪野
伊予三瀧城主の北之川親安は長宗我部氏から厚遇され元親の娘婿である波川清宗の娘を妻に迎えたが、清宗は過去に失態を行い蟄居の身で、その不満から天正8年(1580年)12月に主家の長宗我部氏に謀反を起こす。
親安はこの謀反に加担していない旨を起請文にしたためるが、元親に「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が与えられる」との強引な理由で、伊予に侵攻した長宗我部家臣の久武親直に居城・三滝城を攻められ戦死した。
なおこの時に子の北之川正親は岡豊城で斬殺されている。
子の北之川宗親は生き延びて姓を「紀」に改め、土佐国で庄屋紀家の祖となっている。
恵良の戦い(えりょうのたたかい)
1584年3月17日
愛媛県松山市上難波
長宗我部元親の伊予侵入に対し、毛利輝元は姻戚にあたる河野氏を支援するため軍勢を頻繁に伊予へ送った。
天正12年(1584年)3月17日、輝元の命により伊予へ渡海した毛利氏の家臣・宍戸元孝(元秀)は、伊予恵良で長宗我部勢と衝突する。
この戦いにおける勝敗ははっきりしないが、こののちも毛利氏と長宗我部氏は恵良で衝突している。
黒瀬城の戦い(くろせじょうのたたかい)
1584年10月19日
愛媛県西予市宇和町卯之町
天正9年(1581年)1月11日、北之川親安を滅ぼした長宗我部元親は、次に西園寺公広の居城である黒瀬城を攻撃させ城下を焼失させたが、西園寺公広は降伏せず引き上げた。
陣容を整え直した元親は、天正12年(1584年)再び黒瀬城を攻撃し、西園寺公広は長宗我部氏に巨従した。
これにより元親は伊予のほとんどを平定したものの、縁戚にあたる毛利氏の支援を受けた伊予湯築城主の河野氏はまだ残っていた。
この合戦に登場する武将
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久武親信 (ひさたけちかのぶ)
長宗我部家臣。誠実で分別があり、元親から厚い信頼を受けた。南伊予地方の攻略を任され、小豪族らとの合戦を繰り返した。伊予岡本城を攻撃中に戦死した。
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土居清良 (どいきよよし)
西園寺家臣。伊予大森城主。西園寺十五将の1人。一時土佐へ逃れるが、土佐一条家の援助で復帰し、各地で活躍した。知略勇武で知られ「清良記」を著した。
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河野通直 (こうのみちなお)
伊予の戦国大名。湯築城主。庶流・池原河野家の出身。長宗我部元親に敗れて家臣となり、豊臣秀吉の四国征伐軍と戦い敗北。改易されたため安芸に移住した。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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大野直之 (おおのなおゆき)
河野家臣。直昌の弟。地蔵嶽城主・宇都宮豊綱の娘婿となる。豊綱の没落後は地蔵嶽城主となった。たびたび主家に背き兄や主家の軍と戦いを繰り返した。
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長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)
土佐の戦国大名。岡豊城主。国親の子。剽悍の一領具足衆を率い、瞬く間に周辺諸国を制圧。10数年で四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」の異名をとった。
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久武親直 (ひさたけちかなお)
長宗我部家臣。策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込み、主家滅亡の因を作った。兄・親信は主君・元親に「弟は必ず主家に仇をなす」と語っていたという。
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北之川親安 (きたのがわちかやす)
西園寺家臣。三滝城主。西園寺十五将の1人。長宗我部家臣・波川玄蕃の娘を娶ったが、のちに玄蕃が謀叛を企てたため長宗我部元親の攻撃を受け、敗死した。
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西園寺公広 (さいおんじきんひろ)
伊予の豪族。黒瀬城主。叔父・実充の養子となり家督を継ぐ。のちに豊臣秀吉の四国征伐軍に降るが、西園寺旧臣の叛乱を警戒した戸田勝隆により謀殺された。