安東愛季の北出羽平定
安東愛季の北出羽平定
1562年8月
安東愛季と戸沢盛安
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長岡城の戦い(ながおかじょうのたたかい)
1562年8月18日
秋田県大館市比内町扇田
出羽十狐 (独鈷)城主の浅利則頼は、安東氏・南部氏・津軽氏に挟まれながらも自立を保っていたが、その嫡男・則祐と次男の勝頼が確執により家督を争い隙が生じてしまう。
勝頼は永禄5年(1562年)8月、宿敵である檜山城の安東愛季と結託し、兄の浅利則祐を襲撃する。
則祐は扇田長岡城で防戦に努めたが、自害に追い込まれた。
浅利勝頼は兄の跡を継いで家督を継ぎ安東氏に帰属した、それまでの支城に加え、新たに大館城を築いて、北の守りとして城下に独鈷衆を配置した町割りを行った。
後に勝頼は愛季からの自立を図ったため、天正10年(1582年)に謀殺されている。
大沢山の戦い(おおさわやまのたたかい)
1582年8月28日
秋田県横手市雄物川町大沢・深井
出羽国由利郡に割拠していた国衆を、総称して由利十二頭とよぶ。
雄勝郡を勢力下におく横手城の小野寺氏に従っていたが、檜山城の安東愛季と結び自立を模索し始めていた。
一方で小野寺氏は織田信長に拝謁するため上洛を企画していた。
留守中の領内の安定を図るため、由利十二頭に人質を要求した。
そのようななか、小野寺氏に送られていた由利十二頭の人質が、集団で自刃を遂げる。
これを受けた由利十二頭は激怒し、小野寺領への侵入を開始したのである。
8月28日に由利十二頭軍は小野寺領に侵攻して平鹿・由利の郡境に位置する大沢山に陣を敷いた。
小野寺義道は軍勢を組織し、由利十二頭軍を撃破した。
有屋峠の戦い(ありやとうげのたたかい)
1586年5月8日 ~ 12日
秋田県湯沢市秋ノ宮
天正9年(1581年)、橋手城の小野寺義道に従っていたこともある鮭延秀綱は、鮭延城の戦いに敗れ山形城の最上義光に降伏していた。
天正14年(1586年)5月3日、小野寺義道が勢力の回復を図るべく騎馬1,000騎、足軽5,000人の軍勢をもって最上領へ侵攻した。
それに対し義光は、騎馬1,500余騎、足軽10,000余人を率いて小野寺勢を最上領と小野寺領の境であった有屋峠で迎え撃つ。
最上勢は小野寺勢の挑発に乗り細い道を進んだため、両側から弓や鉄砲で打ち掛けられ小野寺勢の戦死者38人に対し、最上勢の戦死者は1,000人を越える大損害が出た。
しかし5月12日に義光は子・義康を総大将とし鮭延秀綱の精鋭隊など800騎の援軍を送ると奮戦し小野寺勢を退陣させた。
唐松野の戦い(からまつののたたかい)
1587年4月6日 ~ 8日
秋田県大仙市協和境
横手城主・小野寺義道と対立していた檜山城主・安東愛季は、義道が角館城主の戸沢盛安と不和になったのを利用して盛安とともに義道を攻略しようとする。
しかし盛安はこれを拓絶したことから、愛季は盛安を攻撃することにした。
4月2日、安東愛季は騎馬700騎と雑兵を合わせて3000の軍勢を唐松岳の麓に集結させた。
愛季が戸沢領に侵攻すると、それを知った成安は4月5日に3800の軍勢を角館から進発させ、安東領と戸沢領の境に位置する唐松野で迎え撃つ。
5日夜半より盛安は精兵を密かに接近させ、6日の夜明けと共に安東陣を攻撃させた。
不意を襲われた安東軍は大混乱に陥ったが、しだいに態勢を立て直し応戦した。
4月6日から3日間にわたる激戦の末、安東軍は300余人、戸沢軍に170余人の犠牲者が出たという。
両軍が兵を退いたが、実質的には愛季の敗北だった。
檜山城の戦い(ひやまじょうのたたかい)
1589年2月 ~ 7月
秋田県能代市檜山
この合戦に登場する武将
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安東愛季 (あんとうちかすえ)
檜山安東家8代当主。舜季の嫡男。湊・檜山の両安東家を統一し、巧みな戦略で安東家最大の版図を築き上げ「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた。
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浅利勝頼 (あさりかつより)
出羽の豪族。則頼の次男。安東家と結んで兄・則祐を自害させ、当主となる。のちに津軽家と結び謀叛を企んだため、安東愛季に酒宴へ誘い出され、殺された。
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浅利則祐 (あさりのりすけ)
出羽の豪族。十狐(独鈷)城主。則頼の嫡男。安東家への従属を画策する弟・勝頼と対立する。のちに勝頼の手引きを受けた安東軍の攻撃を受け、自害した。
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小野寺義道 (おのでらよしみち)
小野寺家14代当主。輝道の次男。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、所領を安堵される。関ヶ原合戦では徳川家の出陣要請を無視したため、戦後改易された。
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最上義光 (もがみよしあき)
最上家11代当主。義守の嫡男。父を隠居させ、弟を殺して当主となる。密約外交や敵重臣の暗殺など、権謀術数の限りを尽くし、最上家最大の版図を築いた。
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戸沢盛安 (とざわもりやす)
戸沢家18代当主。角館城主。道盛の三男。積極的な軍事行動で戸沢家最大の版図を築いた。「夜叉九郎」の異名をとった反面、慈悲深い一面もあったという。
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安東通季 (あんとうみちすえ)
湊安東家10代当主。茂季の嫡男。父の死後、伯父・愛季に湊城を追われ、豊島城に移される。愛季の死後、戸沢家と結んで謀叛を起こすが、失敗に終わった。
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安東実季 (あんとうさねすえ)
檜山安東家9代当主。愛季の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。南部家や戸沢家と抗争し、所領を守り抜くが、関ヶ原合戦での不手際により、秋田領を追われた。