織田信長の甲斐・信濃平定
織田信長の甲斐・信濃平定
1582年2月
武田勝頼と滝川一益
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滝沢要害の戦い(たきざわようがいのたたかい)
1582年2月6日
長野県下伊那郡平谷村
天正10年(1582年)2月、織田信長による甲斐攻めが開始されると、伊那口からは信長の嫡男・織田信忠率いる大軍が侵入してきた。
これに対し武田勝頼は、信濃吉岡城主の下条信氏に命じて、伊那口を守らせることにする。
信氏は、滝沢要害(長野県下伊那郡平谷村)において織田勢を迎撃しようとした。
しかし圧倒的な織田軍を前に陣中では動揺が広がり、信氏の実弟の下条氏長は織田方の河尻秀隆に内通し、熊谷玄蕃・原民部ら家中の同志を募り、兄の信氏に織田勢への降伏を進めた。
しかし信氏はこれを拒否したため、6日、氏長らは叛乱を起こして信氏を追放し織田方に降伏した。
その後下条氏長は、河尻秀隆の軍勢を伊那に引き入れた。
飯田城の戦い(いいだじょうのたたかい)
1582年2月14日 ~ 15日
長野県飯田市追手町
滝沢要害が陥落して織田信長の軍勢が信濃に侵入すると、信濃松尾城主・小笠原信嶺は戦わずに織田軍に下り、梨子野峠から森長可ら織田軍の先陣を招き入れます。
小笠原信嶺や森長可らは、下伊那における武田方の拠点で武田勝頼配下の保科正直・坂西織部らが守っていた飯田城に向かった。
しかし織田勢の来襲をみると、2月14日の夜、城を捨てて敗走する。
翌15日の早朝、森長可は飯田城の城兵を追撃し、坂西織部らが討ち取られた。
小笠原信嶺の離反に対し勝頼は人質であった信嶺の母を処刑した。
鳥居峠の戦い(とりいとうげのたたかい)
1582年2月16日
長野県木曾郡木祖村
天正10年(1582年)2月2日、武田勝頼は織田信長に内通した一族の木曾義昌を討つべく新府城を出陣すると、武田信豊の2000騎・今福昌和の3000騎を木曾に向かわせた。
これに対し義昌は、信長配下の織田長益・稲葉貞通らの軍勢とともに、武田勢を木曾路の難点である鳥居峠で迎え撃つ。
2月16日、木曽軍の遠山友忠は武田軍に鳥居峠を越えさせて青木ヶ原に誘い込み、今福昌和を討ち取る。
乱戦途中から織田信長の加勢で苗木軍が木曽勢に加わり、小田左京ら武田軍の将を含め150人を討ち取った。
この戦いに敗れた武田信豊らは、家臣らとともに小諸城へ逃れたが、城代の下曾根信恒に背かれて自刃する。
勝頼は、28日に新府城に帰陣した。
この戦いの負けにより武田家は一気に崩壊し滅亡する事となっていく。
大島城の戦い(おおしまじょうのたたかい)
1582年2月17日
長野県下伊那郡松川町元大島
織田信忠を大将とする織田勢は、2月14日に飯田城を落とすと、17日には、上伊那における武田方の拠点であった信濃大島城に迫る。
大島城には武田信玄の弟である武田信廉らが入って守っていたが、信廉は大した抵抗もすることなく大島城を放棄して甲斐へ退却した。
大島城の城将・日向宗栄(是吉)は自刃した。
信忠は大島城に河尻秀隆・毛利秀頼を入れると、自身は軍を進め、飯島に着陣した。
田中城の戦い(たなかじょうのたたかい)
1582年2月20日 ~ 3月1日
静岡県藤枝市田中
織田信長の軍勢に呼応して、2月18日、徳川家康も遠江浜松城を出陣して武田勝頼の領国駿河に侵入する。
遠江小山城を自落させた家康は、大須賀康高・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らを先鋒にして、武田勝頼の属城である駿河田中城を包囲した。
田中城は堅固に備えを立てて落城の気配を見せなかった。
攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、田中城の依田信蕃はこれを拒絶。
さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けて、ようやく3月1日に信濃の本領を安堵する条件で城を大久保忠世に引き渡した。
開城後、信蕃は家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。
持舟城の戦い(もちふねじょうのたたかい)
1582年2月21日 ~ 27日
静岡県静岡市駿河区用宗城山町
天正10年(1582年)2月21日、徳川家康は駿府に着陣する。
このとき駿府城を守っていた武田勝頼の叔父の一条信龍は甲斐へ退去していたので、徳川軍は駿府城に入った。
家康は家臣の石川数正らに命じて朝比奈信置が守る駿河持舟城を攻撃させる。
このころには駿河の武田勢の多くが甲斐に引きあげており、2月27日に信置は降伏して持舟城を開城すると、久能山城に敗走した。
持舟城はこの際に廃城されたと伝わる。
戸倉城の戦い(とくらじょうのたたかい)
1582年2月28日
静岡県三島市徳倉
天正10年(1582年)2月、織田信長の甲斐攻めを受けて、北条氏政も武田勝頼の領国駿河へ侵攻し、伊豆戸倉城を攻撃した。
戸倉城を守る笠原政晴(政尭)は、氏政の重臣・松田憲秀の子であったが、武田方に寝返っていたものである。
28日の総攻撃により、武田勢500余が討ち取られたという。
戸倉城の落城により、駿河の三枚橋城や深沢城などの武田方の諸城も自落した。
後に笠原政晴は一命を助けられ、北条氏に帰参している。
三谷幸喜監督の映画「ステキな金縛り」に出て来る北条家の落ち武者「更科六兵衛」のモデルは、この笠原政晴のようです。
高遠城の戦い(たかとおじょうのたたかい)
1582年3月2日
長野県伊那市高遠町東高遠
伊那から侵入した織田信忠の軍勢に対し、もともと武田氏に服属を余儀なくされていた信濃の国衆は抗戦しなかった。
しかし武田勝頼の実弟である仁科盛信だけは、居城の信濃高遠城にて織田勢を迎え撃とうとしていた。
織田信長から「援軍を派遣するから待機せよ」との指示が出ていたにもかかわらず、織田信忠はこれを無視して2月23日より約30,000の兵で高遠城の包囲を始めた。
高遠城主は援軍が期待できない中、約500人の手勢で迎え撃つ。
まず信忠は他の武田方の城を落としたように、黄金と書状を送って降伏勧告を行うものの、仁科盛信は使者の耳を削いで追い払った。
これを受けて3月2日に織田軍は総攻撃を開始。
東西南北の各門をいっせいにこじ開け、一気に本丸へと迫った。
高遠城はその日のうちに落城し、仁科盛信は自刃、城兵400余がことごとく討死し全員玉砕したという。
戦後、領民達は仁科盛信の戦いぶりを讃えて「新城神」として崇拝したという。
現在も長野県歌「信濃の国」の歌詞にうたわれるなど、広く愛されている。
田野城の戦い(たのじょうのたたかい)
1582年3月11日
山梨県甲州市大和町田野
この合戦に登場する武将
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河尻秀隆 (かわじりひでたか)
織田家臣。黒母衣衆筆頭。信長の嫡男・信忠の補佐役となる。甲斐平定戦で活躍し、戦後、甲斐一国を与えられた。本能寺の変後、甲斐の国人一揆で殺された。
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森長可 (もりながよし)
織田家臣。可成の嫡男。伊勢長島一向一揆鎮圧や武田家征伐に参戦し「鬼武蔵」の異名をとった。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧長久手合戦で戦死した。
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保科正直 (ほしなまさなお)
武田家臣。正俊の子。主家の滅亡後は一時北条家に属すが、敵対する小笠原貞慶らが豊臣家に属したため、徳川家に仕える。第一次上田合戦などに従軍した。
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武田信豊 (たけだのぶとよ)
信繁の子。信濃小諸城主。川中島合戦で父が戦死したため、家督を継ぐ。父譲りの軍才をもって主君・勝頼を補佐した。織田信長の甲斐侵攻の際、謀殺された。
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木曾義昌 (きそよしまさ)
信濃木曾谷の豪族。義康の嫡男。武田信玄の娘を娶る。のち織田信長に通じ、武田家滅亡の原因を作った。本能寺の変後は徳川家康に属し、下総に転封された。
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織田長益 (おだながます)
信秀の十男。有楽斎と号す。茶の湯に傾倒し、利休七哲の1人となった。兄・信長の死後は豊臣家に属すが、大坂の陣直前に徳川方に通じ、大坂城を退去した。
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稲葉貞通 (いなばさだみち)
織田家臣。一鉄の長男。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では織田秀信に従い西軍に属すが、のち東軍に降伏。戦後、豊後臼杵5万石を領した。
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遠山友忠 (とおやまともただ)
美濃の豪族。苗木城主。友勝の子。織田家に従って武田家と戦う。信玄の娘婿・木曾義昌を織田家に寝返らせた。のちに森長可と争って出奔、徳川家康を頼る。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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斯波長秀 (しばながひで)
織田家臣。斯波義統の次男。各地を転戦し、信濃平定後、信濃伊那郡を領す。本能寺の変後は豊臣秀吉に属して九州征伐などに従軍、再び信濃伊那郡を領した。
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武田信廉 (たけだのぶかど)
信虎の三男。次兄・信繁の死後、親族衆の筆頭として長兄・信玄を補佐。容貌が信玄に似ていたため、影武者も務めた。画才があり、人物画などの作品を残す。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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酒井忠次 (さかいただつぐ)
徳川家臣。徳川四天王筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。
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本多忠勝 (ほんだただかつ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。
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榊原康政 (さかきばらやすまさ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の功を立てた。晩年、「老臣権を争うは亡国の兆し」と老中への就任を辞退した。
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大久保忠世 (おおくぼただよ)
徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。
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蘆田信蕃 (あしだのぶしげ)
武田家臣。信守の子。二俣城主を務め、父とともに徳川軍と戦った。主家滅亡後は徳川家に仕え、信濃攻略に参加するが岩尾城攻撃戦で銃弾を浴び、戦死した。
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石川数正 (いしかわかずまさ)
徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
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朝比奈信置 (あさひなのぶおき)
今川家臣。小豆坂合戦などで戦功を立てる。主家滅亡後は武田信玄に仕え、駿河先方衆となった。武田家滅亡の際に、居城・庵原館を攻められ敗北、自害した。
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北条氏政 (ほうじょううじまさ)
後北条家4代当主。氏康の嫡男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。
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笠原政尭 (かさはらまさたか)
北条氏家臣。松田憲秀の子で笠原氏を継ぐ。豊臣氏の小田原攻めの際、父と共に秀吉に内応しようとしたが、弟・秀治に密告され発覚、主君の氏政に殺された。
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仁科盛信 (にしなもりのぶ)
武田信玄の五男。信濃の豪族・仁科家の名跡を継ぐ。兄・勝頼の命により信濃高遠城を守る。織田信長軍に対し、頑強に抵抗したが衆寡敵せず敗北、自害した。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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武田勝頼 (たけだかつより)
甲斐の戦国大名。信玄の四男。家督相続後は強硬策で領国を広げるが、長篠合戦での大敗により家臣団が瓦解。織田軍に追い詰められ、天目山で自害した。