小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い
1584年3月
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合
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亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい)
1584年3月12日
三重県亀山市本丸町
天正12年(1584年)3月12日、織田信雄は羽柴秀吉の機先を制して、配下の伊勢神戸城主・神戸正武や蟹江城主の佐久間正勝らに命じ、秀吉方についていた関一政の居城である伊勢亀山城を500余の兵で奇襲させた。
このとき城兵が伊勢峰城攻めなどに関わっていたため、亀山城の守備は手薄だった。
しかし関一政と父・盛信は、城下に火を放ちその噴煙を利用して打って出るなどして、結局正武の攻略は失敗に終わった。
その後羽柴方の蒲生氏郷や堀秀政・滝川一益ら約1万の軍勢が到着し、今度は逆に信雄方の峰城を攻撃していくこととなる。
犬山城の戦い(いぬやまじょうのたたかい)
1584年3月13日
愛知県犬山市犬山
犬山城天守閣からの眺め
峰城の戦い(みねじょうのたたかい)
1584年3月14日
三重県亀山市川崎町森
3月14日、羽柴秀吉は蒲生賦秀(氏郷)を大将として、滝川一益と関盛信・一政父子ら1万余の軍勢で織田信雄方の伊勢峰城を攻撃させた。
峰城には、尾張蟹江城主の佐久間信栄や天野景俊ら4000余の兵が守っていた。
この峰城は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦である峰城の戦いの舞台となったところで、城壁の修復も終わっていなかった。
城から打って出た兵300余が討ち取られるとわずか数日で落城し、佐久間信栄は夜陰に乗じて尾張に落ちていった。
松ヶ島城の戦い(まつがしまじょうのたたかい)
1584年3月16日 ~ 19日
三重県松阪市松ヶ島町
天正12年(1584年)3月6日、織田信雄は羽柴秀吉に通じたとして老臣の伊勢松ヶ島城主・津川義冬を誅殺すると、腹心の滝川雄利と日置大膳亮を松ヶ島城に入れた。
これを受けて、秀吉は松ヶ島城を奪還すべく、3月16日に弟・秀長らに命じて松ヶ島城を攻撃させた。
徳川家康の送った服部正成の援軍を得て羽柴秀長の包囲に対し40日にわたって篭城したが、抵抗の不利を悟った雄利は3月19日に勧降に応じて開城した。
その後秀長は松ヶ島城に岡本重政を入れた。
羽黒の戦い(はぐろのたたかい)
1584年3月17日
愛知県犬山市羽黒
徳川家康が尾張小牧山城に本陣をおくと、羽柴秀吉方の池田恒興とその女婿・森長可が小牧山城の攻撃を図る。
しかしこの動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半に家康配下の松平家忠・酒井忠次・奥平信昌・榊原康政らは5000余の兵を率いてひそかに打って出て、池田勢と合流すべく尾張羽黒に滞陣していた森勢の陣を急襲する。
翌3月17日早朝、酒井勢の奇襲により森勢は300余が討ち取られたという。
恒興は3万余の軍勢を率いて駆けつけたが、徳川勢は池田勢との衝突を避け、小牧山城に退いた。
小牧の戦い(こまきのたたかい)
1584年3月28日
愛知県小牧市小牧
長久手の戦い(ながくてのたたかい)
1584年4月9日
愛知県愛知郡長久手町
長久手古戦場
加賀井城の戦い(かがのいじょうのたたかい)
1584年5月1日 ~ 6日
岐阜県羽島市下中町加賀野井
竹ケ鼻城の戦い(たけがはなじょうのたたかい)
1584年5月10日 ~ 6月10日
岐阜県羽島市竹鼻町
4月9日の長久手の戦いで家康に敗北を喫した羽柴秀吉は、伊勢長島城の信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図った。
まず加賀井城を攻め落とし、次に不破広綱が守る竹ヶ鼻城を5月10日から攻囲する。
この不破広綱は長年信長に仕え、秀吉とも昵懇の間柄だったため城内で大評定のすえ信雄方につくことを決めていた。
竹ヶ鼻城は、木曾川とその支流逆川に挟まれているうえに、三重四重の堀で囲まれた水城であったため秀吉軍は攻めあぐねた。
そこで城の北から西、南へかけても、半円形に約3kmに及ぶ堤防を築き、水攻めすることにした。
5月11日より、将兵のみならず付近一帯の住民もかり集め、突貫工事を行った。
この堤は「一夜堤」と呼ばれるが、実際には5、6日は要したと見られている。
城側は信雄や家康に救援を要請する使者を送るも、本多忠勝や織田長益・滝川雄利による援軍は、秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまった。
そのため6月10日に城主以下全員の命を助ける条件で不破広綱は勧告に応じ開城した。
こののち秀吉は、一柳直末を竹ヶ鼻城の城番としている。
蟹江城の戦い(かにえじょうのたたかい)
1584年6月22日 ~ 7月3日
愛知県海部郡蟹江町
戸木の戦い(へきのたたかい)
1584年8月14日 ~ 11月15日
三重県津市戸木町一帯
羽柴方と織田・徳川方が尾張から兵を退いたあとも、伊勢では信雄方で唯一木造城の木造具康・具政父子が羽柴秀吉に従う蒲生氏郷に抵抗を続けていた。
具政は少数の軍勢を分けるのはよくないということで居城の木造城を捨て、要害の地にあり隠居していた具康が守っていた戸木城で籠城した。
天正12年(1584年)5月に入り、蒲生軍は木造氏の支城である牧城・川方城・宮山城などを落城させ、戸木城に迫った。
木造軍1千に対して、蒲生氏郷は織田信包を総大将として、約2万の大軍で攻め掛かるも、木造勢は夜襲を仕掛けるなどしてよく守ります。
戦う名分のなくなった徳川家康も、11月21日に兵を浜松に退いたため小牧・長久手の戦いは終結した。
木造軍には強者が揃っていたとされ、蒲生氏郷は自領を平定した後、木造氏旧臣のうち勇士を召し抱えたとされている。
この合戦に登場する武将
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関盛信 (せきもりのぶ)
伊勢の豪族。亀山城主。織田信長の伊勢侵攻軍に降る。本能寺の変後は豊臣秀吉に従った。のちに蒲生氏郷の与力となり氏郷の会津転封に従って会津に移った。
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関一政 (せきかずまさ)
伊勢の豪族。亀山城主。盛信の次男。蒲生家に仕え、奥州征伐で活躍。関ヶ原合戦の際は東軍に属し、伯耆黒坂5万石を領すが、のちに内紛により改易された。
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池田恒興 (いけだつねおき)
織田家臣。信長の乳兄弟。姉川合戦などで活躍した。本能寺の変後は、織田家四宿老の1人となる。羽柴秀吉に味方して小牧長久手の合戦に出陣し、戦死した。
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森長可 (もりながよし)
織田家臣。可成の嫡男。伊勢長島一向一揆鎮圧や武田家征伐に参戦し「鬼武蔵」の異名をとった。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧長久手合戦で戦死した。
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蒲生氏郷 (がもううじさと)
織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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佐久間信栄 (さくまのぶひで)
織田家臣。信盛の子。父とともに追放されるが、父の死後、許されて織田信雄に仕えた。信雄の改易後は豊臣秀吉に仕えて御咄衆となった。茶人としても著名。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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服部半蔵 (はっとりはんぞう)
徳川家臣。半三保長の子。父の跡を継ぎ隠密頭を務める。主君・家康の伊賀越えの際には、警護を担当し、無事に帰国させた。「鬼の半蔵」の異名をとった。
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酒井忠次 (さかいただつぐ)
徳川家臣。徳川四天王筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。
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奥平信昌 (おくだいらのぶまさ)
徳川家臣。貞能の子。一時武田信玄に属すが、信玄の死後、帰参。長篠合戦では長篠城を死守し勝利に大きく貢献した。その功により、家康の娘・亀を娶った。
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榊原康政 (さかきばらやすまさ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の功を立てた。晩年、「老臣権を争うは亡国の兆し」と老中への就任を辞退した。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)
豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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織田信包 (おだのぶかね)
信秀の四男。越前攻めや石山本願寺攻めに参戦した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の子・秀頼の傅役を務めた。娘は秀吉の側室となり、寵愛された。
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木造具康 (こづくりともやす)
北畠家臣。木造城主。俊茂の子。木造家は北畠顕俊(伊勢国司初代・顕能の子)を祖とする北畠家庶流。他の一門と異なり、宗家と同等の官位に任官していた。
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木造具政 (こづくりともまさ)
北畠家臣。北畠晴具の子。木造家を継いだ。兄・具教に背いて織田信長の軍に降る。その後は織田信雄に属し、小牧長久手合戦では蒲生氏郷軍と戦うが敗れた。