羽柴秀吉の四国平定
羽柴秀吉の四国平定
1585年7月
長宗我部元親と羽柴秀長
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丸山城の戦い(まるやまじょうのたたかい)
1585年7月2日 ~ 14日
愛媛県西条市氷見
四国平定を目指す羽柴秀吉は、中国の毛利輝元に伊予の侵攻を命じた。
毛利輝元は吉川元長・小早川隆景に中国8か国から集めた3万余の大軍をつけて伊予に送った。
伊予宇摩・新居郡を勢力下におく石川氏と石川氏の実権を握っていた金子氏を討つため、伊予に上陸した毛利勢は、まず石川氏の居城である高峠城の支城丸山城を包囲する。
丸山城主の黒川広隆は戦わずして降伏開城すると、丸山城には輝元の家臣の香川広景が入った。
金子城の戦い(かねこじょうのたたかい)
1585年7月14日
愛媛県新居浜市金子
高尾城の戦い(たかおじょうのたたかい)
1585年7月15日 ~ 17日
愛媛県西条市氷見
野々市原の戦い(ののいちはらのたたかい)
1585年7月17日
愛媛県西条市野々市
高尾城の戦いに敗れた金子元宅は、7日17日、高尾城を自焼すると野々市原に600余の兵を率いて討って出た。
寡兵の金子勢に勝機はなく、玉砕を覚悟の出陣だったのだろう。
3万余の小早川勢に決戦を挑んだ長宗我部軍の援軍200を含めた総勢800余の金子勢は奮戦するも、ことごとく討ち取られた。
最期13人になるまで戦ったという。
こののち首実検をした小早川隆景は元宅らの最期を讃え、野々市に首塚を築いて丁重に供養したという。
この首塚は、現在も千人塚として野々市に残る。
この戦で伊予における最大拠点を失った長宗我部氏は、その後伊予各地で敗戦し、毛利軍に屈することとなる。
仏殿城の戦い(ぶつでんじょうのたたかい)
1585年7月20日
愛媛県四国中央市川之江町
金子城・高尾城を落とした吉川元長・小早川隆景ら羽柴勢は、伊予仏殿(川之江)城の攻略に向かった。
この仏殿城は讃岐と近接し、阿波・土佐両国にも通じる要衝で、天正10年(1582年)に長宗我部元親が攻略していた。
羽柴勢はここを足がかりにして、阿波・ 讃岐に侵攻した羽柴秀長との連携を強めようとしたのである。
仏殿城兵は戦わずに開城したことにより、伊予は平定された。
関ヶ原の戦いの後、仏殿城には加藤嘉明が入っている。
木津城の戦い(きづじょうのたたかい)
1585年7月8日
徳島県鳴門市撫養町木津
和泉・大和・紀伊の兵3万余を率いた羽柴秀長は、堺から淡路洲本に上陸すると、明石から洲本へ向かった羽柴秀次隊と合流し、天正13年(1585年)長宗我部元親方の阿波木津城を攻撃した。
木津城は元親の養女を娶り一門となっていた東条関兵衛が守るも、8日間後に水の手を断たれて落城した。
関兵衛は脱出し土佐落ちたが、降伏を認めない元親によって敗戦の責を問われ、土佐浦戸城で自刃させられた。
牛岐城の戦い(うしきじょうのたたかい)
1585年7月15日
徳島県阿南市富岡町トノ町
木津城を落とした羽柴勢の主力が一宮城および脇・岩倉城に向かうと、一手は阿波九城の一つであり阿波南方最大の軍事拠点である阿波牛岐城攻めに向かった。
長宗我部元親は実弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れて阿波を統括させていた。
しかし香宗我部親泰は羽柴勢の猛攻を防ぎきることができずに開城し、土佐に逃れた。
脇城の戦い(わきじょうのたたかい)
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町
木津城を落とした羽柴秀次は、中富川(吉野川)中流域を押さえる阿波脇城の攻略に向かい、黒田官兵衛・堀秀政・蜂須賀正勝・日根野弘就・前野長康らとともに包囲した。
さらに秀次は、阿波白地城にいる長宗我部元親を牽制したが、結局元親からの後詰はなかった。
脇城を守っていた元親の叔父にあたる長宗我部親吉は、水の手を断たれ、またすぐ近くの岩倉城が先に降伏したため降伏開城する。
開城後、親吉は土佐に落ちる途中の貞光川の栂橋にて、先だって長宗我部氏に領土を奪われ逼塞していた土豪の小野寺吉家一党に襲撃され殺害された。
小野寺氏を扇動したのは豊臣方の蜂須賀家政であるとされており、のちに蜂須賀氏は阿波一国が与えられ、小野寺氏は蜂須賀氏に登用されている。
岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい)
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町岩倉
羽柴秀次は、脇城とともに阿波随一の要害として知られていた岩倉城の攻略に取りかかる。
この岩倉城は、畿内にも勢威を誇っていた三好康長(笑岩)の属城だったもので、秀次は康長の養子だったこともあるので、養父の旧城を奪還するという意味もあった。
城将は元親の従兄弟の比江山親興(長宗我部掃部頭)で、兵の意気は軒昂であったので力攻めするのも謀略を仕掛けるのも難しい状況であった。
そこで羽柴方の黒田官兵衛はまず水攻めを仕掛けた。
近くの吉野川から水を引いて食糧を駄目にして水の補給を妨害し、その一方で城外に築かれた井楼から大砲を昼夜問わず散々に撃ちかけ、また兵たちに何度も関の声を上げさせる。
岩倉城兵は戦意喪失し戦うことなく開城した。
一宮城の戦い(いちのみやじょうのたたかい)
1585年7月15日
徳島県徳島市一宮町
この合戦に登場する武将
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吉川元長 (きっかわもとなが)
元春の長男。父に劣らぬ武勇を誇り、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した際も、常に勝利を収めたという。父の隠居後、家督を継ぐが、父の死後間もなく病死した。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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金子元宅 (かねこもといえ)
伊予の豪族。金子城主。長宗我部元親の四国統一に貢献する。人格・識見ともに優れた勇将と評された。豊臣秀吉の四国征伐軍に抵抗するが敗れ、自害した。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)
豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。
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香宗我部親泰 (こうそかべちかやす)
長宗我部国親の三男。阿波中富川合戦で十河存保軍を破るなど、兄・元親の片腕として四国統一に貢献した。織田家に使者として赴くなど、外交でも活躍した。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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蜂須賀小六 (はちすかころく)
豊臣家臣。墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の参謀として民政・調略に手腕を発揮。四国征伐後、長宗我部家への抑えとして阿波徳島18万石を領した。
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日根野弘就 (ひねのひろなり)
豊臣家臣。はじめ斎藤家に仕え、織田信長と戦う。主家滅亡後は浅井家に属し、浅井家の滅亡後、豊臣家に仕えた。合戦に実用的な兜「日根野鉢」を考案した。
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前野長康 (まえのながやす)
豊臣家臣。蜂須賀正勝とともに墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の片腕として活躍、但馬出石5万石を領した。のちに豊臣秀次事件に連座し、自害した。
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長宗我部親吉 (ちょうそかべちかよし)
兼序の子。父の死後、兄の国親に従い長宗我部家の再興に尽力。さらに甥の元親を支えて四国統一に貢献した。秀吉による四国征伐の際は阿波を守ったが敗退。
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谷忠澄 (たにただずみ)
長宗我部家臣。知略に優れ、外交を担当した。豊臣秀吉の四国征伐軍と戦うが、抗戦は無理と判断して主君・元親に和睦を勧め、主家を滅亡の危機から救った。
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江村親俊 (えむらちかとし)
長宗我部家臣。親家の子。津野親忠が豊臣秀吉の人質となった際は、親忠に従って伏見へ赴いた。朝鮮派兵では渡海し、晋州城攻撃戦に参加して戦功を立てた。