伊達政宗の南奥羽平定
伊達政宗の南奥羽平定
1585年8月
伊達政宗と佐竹義重
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小手森城の戦い(おてのもりじょうのたたかい)
1585年8月27日
福島県二本松市針道
天正13年(1585年)、出羽国米沢城主・伊達政宗は三春城主・田村清顕とともに、小浜城主の大内定綱を攻略するために出陣した。
これは田村氏に従っていた大内定綱が、蘆名氏を通じて自立を図ったためである。
河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、定綱の縁戚にあたる菊池顕綱が守る小手森城を囲んだ。
8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城。
このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供・犬に至るまでも全て撫で斬りにしその数は総勢1,000人に及んだ。
このことは周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残して、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。
こののち小浜城は自落し、定綱は二本松城に落ちた。
二本松城の戦い(にほんまつじょうのたたかい)
1585年10月15日 ~ 18日
福島県二本松市郭内
人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)
1585年11月17日
福島県本宮市青田一帯
中新田の戦い(なかにいだのたたかい)
1588年2月2日 ~ 23日
宮城県加美郡加美町一帯
窪田の戦い(くぼたのたたかい)
1588年6月23日 ~ 7月21日
福島県郡山市富久山町久保田一帯
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)
1589年6月5日
福島県耶麻郡猪苗代町一帯
この合戦に登場する武将
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伊達政宗 (だてまさむね)
伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
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田村清顕 (たむらきよあき)
陸奥の豪族。三春城主。隆顕の子。近隣の高倉城を攻略し、また佐竹家と結んで蘆名家の長沼城を攻めるなど、盛んに活動した。娘・愛は伊達政宗に嫁いだ。
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畠山義綱 (はたけやまよしつな)
能登守護。義続の嫡男。父とともに実権の回復に尽力するが、重臣らに追放されて失敗に終わる。その後、何度も能登入国を試みるが、すべて失敗に終わった。
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佐竹義重 (さたけよししげ)
佐竹家18代当主。義昭の嫡男。父の遺志を継ぎ、常陸の統一に成功する。北条家と伊達家を敵に回し、陣頭で自ら采配を振るう姿は「鬼義重」と恐れられた。
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泉田胤清 (いずみだたねきよ)
相馬家臣。泉田城主。1588年、守備していた大越城に攻め寄せてきた伊達政宗の軍を撃退するなど、主君・義胤に従って伊達家と攻防を繰り返した。
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南条隆信 (なんじょうたかのぶ)
大崎家臣。中新田城主。大崎家内乱の際には居城を守備し、神技に等しい作戦と指揮で、見事に伊達政宗の軍勢を撃退。大崎家侍大将中の名将とたたえられた。
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黒川晴氏 (くろかわはるうじ)
大崎家臣。鶴楯城主。黒川家は大崎家の庶流で、応永年間から伊達家に属す。1588年、伊達家の大崎領侵入の際は大崎家に味方し、伊達軍を撃破した。
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蘆名義広 (あしなよしひろ)
蘆名家20代当主。佐竹義重の次男。白河結城家の養子となるが、のち蘆名盛隆の娘を娶り蘆名家を継ぐ。摺上原で伊達政宗の軍に敗れ、故郷の常陸に逃れた。