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10歳で家督を継ぎ織田家をうまく立ち回った、蒲生元珍(がもうもとよし)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、織田氏の家臣である蒲生元珍(がもうもとよし)、別名青地元珍です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
蒲生元珍の生まれ
織田家臣で近江国の国人の青地(蒲生)茂綱の長男として誕生します。
生年はわかりませんがゲーム信長の野望では1560年と設定されています。
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元亀元年(1570年)に父の茂綱が宇佐山城の戦いで戦死したことにより家督を相続します。
元珍はおそらく10歳程度で幼少であったが領地や与力・家来はそのまま安堵されました。
元亀2年(1571年)12月に織田氏の家臣・佐久間信盛の与力となり、それ以降は信盛与力として天正元年(1573年)の槇島城の戦い、天正4年(1576年)の天王寺の戦いなどに参加しています。
蒲生元珍の転身
天正8年(1580年)に佐久間信盛が19ヶ条の折檻状により織田家を追放されると、蒲生元珍は近江衆として織田信長の旗本に転身します。
天正9年(1581年)1月に安土で行われた江州衆による左義長に名を連ね、同年の第二次天正伊賀の乱にも参陣しました。
天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、三男の織田信孝に仕えるが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後に信孝が自害すると羽柴秀吉に所領を召し上げられ、浪人となってしまいます。
後に従兄弟である蒲生氏郷の元に客将として寄るが、蒲生秀行の代になると蒲生氏を去り、前田利長の元で2,000石を与えられました。
寛永10年9月29日(1633年10月31日)死去。
実子はなく、旧主家であった六角義定の四男を養子に迎え、子孫は代々加賀藩士として前田氏に仕え明治維新を迎えたようです。
信長の野望での蒲生元珍
ゲーム信長の野望での蒲生元珍のパラメーターを見てみましょう。
統率 30 (2089 位)
武勇 30 (2103 位)
知略 46 (1696 位)
内政 37 (1900 位)
外政 38 (1870 位)
合計 181 (2129 位)
2200人中の順位です。
主要な合戦の時期が幼少だったので戦であまり活躍した記録が残っていないので能力値が全体的に非常に低く設定されています。
まとめ
いかがでした?
10歳で父を亡くし、青地家の当主となりさぞ苦労は多かったことでしょう。
実力社会の織田家の元で家を存続させ続けたことだけで十分立派と思います。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
蒲生元珍