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織田家オールスターに包囲され詰んだ神吉頼定(かんきよりさだ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、別所氏の家臣である神吉頼定(かんきよりさだ)です。
著者の出身地である兵庫県加古川市の武将です!
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
神吉頼定の生まれ
神吉頼定の生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1529年と設定されています。
神吉家は赤松家の庶流で、神吉城を築城し代々この地を治めていました。
信長の播磨平定
織田信長は播磨・但馬平定を羽柴秀吉に命じます。
このころ播磨や但馬には、安芸の毛利氏の勢力がおよびつつあり、天正5年(1577)10月に播磨姫路城に入った秀吉は、播磨の国衆を毛利方から離反させることに成功します。
秀吉は播磨を平定したかに見えたが、天正6年播磨の有力大名である三木城の別所長治が本願寺や荒木村重や毛利家などと同調し信長に反旗を翻したことで、播磨平定は振り出しに戻ってしまいます。
信長の命を受けた羽柴秀吉は、3月29日に2万7000余の大軍で三木城を包囲すると三木城に相対する東方の平井山に本陣をおきました。
神吉城の戦い
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。
6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。
7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。
信長の野望での神吉頼定
ゲーム信長の野望での神吉頼定のパラメーターを見てみましょう。
統率 58 (898 位)
武勇 69 (401 位)
知略 62 (805 位)
内政 67 (467 位)
外政 66 (507 位)
合計 322 (452 位)
2200人中の順位です。
マイナー武将の中では比較的能力値が高く設定されています。
まとめ
いかがでした?
加古川市の横の高砂市に生石神社という神社があり、当時そこの神主は神吉頼定の弟だったようで、秀吉に陣所として貸し出すよう要求がきたのを断ったところ、焼き払われたと伝わっています。
今度実家に帰った際は神吉城と生石神社に必ず伺ってみます!
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。