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朝鮮の役で活躍した島津家臣・川上忠実(かわかみただざね)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、島津氏の家臣である川上忠実(かわかみただざね)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
川上忠実の生まれ
永禄6年(1563年)に島津家臣の川上忠光の子として誕生します。
父の忠光は川上将久の次男(四男とも)で、島津忠良の次男・島津忠将の家老を務め、川上忠実は島津忠将の子である島津以久の臣下となりました。
川上家は元々薩州島津家に仕えていましたが、川上忠克の代で敗北し薩摩島津氏に仕え始めました。
沖田畷の戦い
天正12年(1584年)の龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である沖田畷の戦いでは奮戦し、龍造寺軍の龍造寺右衛門大夫(龍造寺家就)を討ち取る大功を上げています。
文禄・慶長の役
文禄・慶長の役の際は島津以久の嫡子である島津彰久の供をして朝鮮に渡海するが、彰久が唐島で病死したため川上忠実がその軍代として彰久勢を指揮する事とりました。
泗川の戦い
慶長3年(1598年)9月26日、泗川古城に300余で在番していた所へ董一元率いる明軍と鄭起竜率いる朝鮮軍の連合軍が5万余の大軍で襲撃してきます。
これに対し、泗川を守備する島津義弘・忠恒(家久)父子の兵力は8000余でした。
劣勢に立たされた義弘は、兵力の分散を避けるため、慶長の役に際して築城した泗川新城への退去を決行します。
こうして島津勢が泗川新城に集結するなか、川上忠実だけが文禄の役に際して築かれた泗川古城に立て籠もっていました。
義弘の命を受けた川上忠実が泗川新城に撤退しようとした9月27日、泗川古城は明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。
川上忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったために敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出したおかげで、無事に泗川新城への入城が叶いました。
この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。
泗川古城を落とした明・朝鮮軍は、勢いに乗じて泗川新城を囲みます。
泗川新城は10月1日から総攻撃をかけられたが、義弘は明・朝鮮軍を引きつけたうえで、鉄砲を多用しながら反攻に転じた。
これにより明・朝鮮軍は総崩れとなり退却を始めたが、このとき反撃に転じた島津勢が明・朝鮮軍を追撃し壊滅に追い込んだのである。
こうした一連の働きから、義弘は帰国後、島津領内に設けられていた豊臣秀吉の直轄領である太閤蔵入地などから5万石を加増されている。
川上忠実はこの時の功績により島津義弘・忠恒父子より馬2頭を、島津以久より500石を賜ります。
川上忠実の最後
川上忠実は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参加し、島津義弘の供をして無事に薩摩へ戻ります。
慶長15年(1610年)、佐土原藩主となっていた島津以久が死去した際は、以久の孫である島津久信が藩を相続できるよう山口直友の元へ請願に出向いています。
元和9年(1623年)、死去。
享年61。
信長の野望での川上忠実
ゲーム信長の野望での川上忠実のパラメーターを見てみましょう。
統率 48 (1435 位)
武勇 56 (1026 位)
知略 54 (1264 位)
内政 49 (1375 位)
外政 49 (1379 位)
合計 256 (1387 位)
2200人中の順位です。
全体的に凡庸な能力値です。
扱っている兵の数が数千規模になってくるともう少し統率が高く設定されそうですが、数百規模なので48という実数値になっているのでしょう。
まとめ
いかがでした?
九州の覇者である島津家には、川上忠実のように合戦で活躍した武将がたくさんいますね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
川上忠実