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山中鹿之介の孫・徳川家臣として生き残った亀井政矩(かめいまさのり)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、徳川家臣の亀井政矩(かめいまさのり)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
亀井政矩の生まれ
亀井政矩は亀井茲矩の次男として1590年に鹿野城(鳥取県鳥取市)で生まれます。
山中鹿之助幸盛の孫にあたる(血のつながりはない)。
父の亀井茲矩は尼子家臣で山中鹿之助と共に尼子氏再興のために戦ったが敗北したが、1581(天正9)年10月25日鳥取城落城により羽柴秀吉は亀井茲矩に気多郡13,800石を与え、鹿野城主となっていました。
亀井政矩の活躍
慶長7年(1602年)、亀井政矩は初めて徳川家康に拝謁し仕えます。
慶長9年(1604年)には豊前守の官位を与えられ、徳川秀忠の近習となります。
慶長14(1609年)正月3日父の茲矩は隠居し、政矩は家督を譲られました。
この年に政矩は伯耆国久米・河村両郡(東伯郡)の内5千石加封され、亀井家の所領は4万3千石になります。
また丹波・篠山城主であった松平康重の娘の林と結婚します。
出世街道まっしぐらです!
慶長17年(1612年)正月26日父の茲矩が鹿野城で病死(56歳)すると、その跡を継いで第2代鹿野藩主となり因幡鹿野4万3千石を継ぎます。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、1,700の兵と共に参陣し、本多正信配下の軍に属します。
その大坂出陣にあたって伯耆大山の下山神社に武運長久を祈っている。
1615年7月、大坂落城の祝勝会に参加した後、鹿野に戻りました。
元和3年(1617年)7月、石見国(島根県)津和野藩主だった坂崎直盛が凶行のために改易されると、亀井政矩は転封の幕命が下り8月13日津和野に同じ石高で入りました。
この時の引越しは非常に時間がかかり寛永年間(1624~1644年)に終了したと言われています。
元和5年(1619年)5月、福島正則が広島城の無断改築で改易となると、堀尾忠晴や森忠政ら西国の大名と共に城受け渡しの役を務めます。
この時、政矩は伏見で病中であったが、急いで広島に駆け付けている。しかし幕府の上使は「無理をしなくてもいい」と言い、政矩を津和野に帰国させました。
同年8月、親しかった高台院に会うために上洛途上の伏見の狼谷で馬が暴れだし落馬。それが元で1619年8月15日に30歳で亡くなっています。
跡は次男の茲政が継ぎました。
1619年8月に上京の命令があったのは、亀井家が今まで忠節を尽くしてきた功に酬いるのに、幕府が姫路城に移封する話をするためだったそうです。
西の防備として重要な姫路を任されかけたということは、幕府からの絶大な信用があったことがわかります。
亀井政矩の墓
遺骸は親しかった高台院ゆかりの寺・高台寺(京都市東山区高台寺)に葬られ高台院のお墓のすぐ横にあります。
信長の野望での亀井政矩
ゲーム信長の野望での亀井政矩のパラメーターを見てみましょう。
統率 53 (1169 位)
武勇 42 (1744 位)
知略 62 (805 位)
内政 64 (589 位)
外政 64 (595 位)
合計 285 (908 位)
父・亀井茲矩のデータも見てみましょう。
統率 44 (1627 位)
武勇 78 (160 位)
知略 64 (695 位)
内政 88 (40 位)
外政 73 (267 位)
合計 347 (251 位)
2200人中の順位です。
亀井政矩は全体的に並といったパラメーターで武勇や知略は父親譲りというわけにはいかなかったようです。
まとめ
いかがでした?
落馬で死ぬって、乗馬はそんなに危険なんですかね?
しかも亡くなったのが29歳頃なので肉体的にも成熟して一番いい頃だと思いますが、残念です。
29歳にしては、ゲームのアイコン画像がちょっと老けて見えます…
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。