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「源氏物語」を愛読した菊池家臣・鹿子木親員(かのこぎちかかず)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、菊池家臣の鹿子木親員(かのこぎちかかず)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
鹿子木親員のデータ
鹿子木親員の生年はわかっていませんが、ゲーム信長の野望では1477年と設定されています。
菊池氏、次いで大友氏の家臣となり、寂心(じゃくしん)の法号で知られます。
隈本城主となる
隈本城は元々菊池氏一族の出田秀信が築いて城主でした。
鹿子木親員は飽田・託麻・玉名・山本、四郡の中に五百六十町歩を領して、楠原城に本拠を構えていました。
しかし、出田秀信が文明十七年(1485)に矢部の馬門原の戦で戦死してしまい、菊池氏の当主菊池重朝は、出田氏に代わって鹿子木親員を隈本城主とし、明応五年(1496)鹿子木親員は隈本の地に入ったのである。
鹿子木親員の活躍
茶臼山南麓に新城を築城した鹿子木親員は、永正13年(1516)、阿蘇山と英彦山の衆徒同士の紛争の仲介や、豊福問題をめぐる相良・名和氏間紛争の仲介などで活躍します。
主家の菊池氏に従い、飽田郡・託麻郡に勢力を伸ばします。
やがて、菊池義武は大友宗家からの自立を企図するようになり、大友氏と敵対する大内氏と結ぶようになった。
しかし、天文四年(1535)、大友義鑑は主家の菊池義武を攻め、敗れた菊池義武は隈本を捨てて島原に逃れました。
大友氏の肥後侵攻に際して、隈部・赤星・城氏らはまったく動かず、肥後は大友氏の征圧下におかれ、鹿子木親員も大友義鑑に服し、天文五年(1536年)には隠退を余儀なくされたようだ。
大友氏から入嗣した菊池義武の時代に家老の地位にあったが、菊池義武が実兄・大友義鑑と対立した天文5年(1536年)頃に離反して大友氏と共に義武やこれを支援する相良氏と争いました。
文学にも造詣が深い鹿子木親員
文事にもすぐれた武将で、自詠の和歌四首が残されている他、三条西実隆から『源氏物語』を購入したことが知られています。
また、藤崎八旛宮や大慈寺の修造などの寺社興行でも知られ、藤崎八幡宮に残されている後奈良天皇の勅額は天文11年(1542年)に親員が要請したものと伝えられています。
鹿子木親員の最後
鹿子木家は嫡男の鹿子木親俊が家督を継ぐが、父に先立って没しています。
そのため、鹿子木親員の没後にその弟の鹿子木鎮有が後を継ぎました。
鎮有は旧主・菊池義武に帰参するが、義武が義鑑の子・大友宗麟に滅ぼされると所領を奪われて没落、隈本城も城親冬に奪われることになった。
信長の野望での鹿子木親員
ゲーム信長の野望での鹿子木親員のパラメーターを見てみましょう。
統率 61 (744 位)
武勇 58 (915 位)
知略 59 (973 位)
内政 65 (545 位)
外政 63 (640 位)
合計 306 (609 位)
2200人中の順位です。
全体的にパラメーターが並ですね。
しかし弱小大名でこの能力の武将は頼りになる存在です。
まとめ
いかがでした?
戦国時代の武将はゴツゴツして頭固いイメージですが、このように文学が好きな人がいると武将が身近に感じますね。
肖像画見ると優しそうなおじいさんです。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。