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北条家の馬廻衆・狩野泰光(かのうやすみつ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、狩野飛騨守泰光(かのうやすみつ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
狩野泰光のデータ
狩野泰光は後北条氏家臣で北条氏康の代から仕えたとされています。
史料によっては氏康の「康」の字を与えられたとみられる「康光」(読み同じ)の表記もみられます。
生年は不明だがゲーム信長の野望では1528年と設定されています。
『北条氏所領役帳』には御馬廻衆として513貫430文の知行高が記されています。
1貫12万ほどらしいので513貫は約6,200万円です。
めちゃくちゃ優秀だったことでしょう。
狩野泰光は北条氏の奉行人・評定衆としても活躍していたようで、彼が署判を加えた裁許朱印状が数多く残っています。
北条家裁許印判状
これは狩野泰光が署判を加えたものか定かではありませんが北条家の裁許印判状になります。
内容は、小田原北条氏の家臣の尾崎大膳の家督相続についてです。
討ち死にした尾崎大膳の家督を、娘が相続することについて、一族の尾崎常陸守と相論になった模様です。
結果としては、娘が相続することになり、母方の一族である宮城四郎兵衛に、北条家に対してよく働く者を夫とするようにとの指示がだされています。
こういうことを評定していたのですね。
永禄11年(1568年)2月10日の裁許朱印状を最後に記録から見られなくなる。
狩野一庵宗円と同一人物
狩野一庵宗円と狩野泰光が同一人物であるということが「佐藤 博信「狩野一庵宗円のこと」『戦国史研究』15号、1988年。」で言及されているようです。
狩野一庵宗円ははじめ北条氏康に馬廻りとして仕えるが、永禄11年(1568年)2月10日以降、永禄12年(1569年)11月7日までの間に北条氏照の奉行人となり、主に奏者として氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城や滝山城の留守居役などを任されています。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、北条氏直が深谷にいた狩野一庵経由で変を知ったと滝川一益に書状を出しているので、滝川勢の及ぶ最前線に配置されていたと思われます。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では八王子城を守備し、三の丸で討ち死にしました。
信長の野望での狩野泰光
ゲーム信長の野望での狩野泰光のパラメーターを見てみましょう。
統率 57 (953 位)
武勇 36 (1960 位)
知略 59 (973 位)
内政 60 (782 位)
外政 61 (734 位)
合計 273 (1102 位)
2200人中の順位です。
武勇以外は並といったところです。
馬廻衆とは戰の際に大将に付き添い護衛や伝令を行う優秀な人材しかなれない職なので、本来の彼は剣術も人並み以上にでき機転も効く人物だったかもしれません。
奉行人・評定衆としても活躍したので、知略も高かったはずでしょう。
まとめ
いかがでした?
文武両道な狩野泰光。
今で言うと政治家を守るSPと裁判官を務めていたようなものでしょうか?
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
狩野泰光
狩野一庵
35.北条家裁許印判状