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長尾為景の傀儡として越後守護となった上杉定実(うえすぎさだざね)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は長尾為景の傀儡として越後守護となった上杉定実(うえすぎさだざね)です。
本サイトではよく傀儡当主を紹介しています!
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さて今回の上杉定実さんは一体何をしたのでしょうかね?
いや、何ぐらいだったらできたんでしょうか?ぐふふ。
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
上杉定実の生まれ
上杉定実は上条上杉家の上杉房実の子として生まれます。
上条上杉家は上杉氏の支族です。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1478年と設定されています。
父の房実の兄である越後上杉家6代当主・房定が越後国守護で、この頃に越後は京から多くの公家や文化人が訪れて大いに発展したようです。
時が経ち、上杉定実は房定の子で越後上杉家7代当主となった上杉房能の娘を文亀3年(1503年)6月に正室に迎えます。
ややこしいので図にしました。
「婚姻の際に既に「定実」と名乗っていたので、成人していたのではと考えられるが、生年が不明なのでわからない」とwikipediaに書いていましたが、この図を見るとおそらく成人していたでしょうね。
長尾景虎(後の上杉謙信)は義理の甥にあたる。
守護代・長尾為景に担がれて越後国守護となる
守護というのは、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多い由緒正しい役職です。
守護は任国(今回の場合越後国)を留守にする期間が長かったので、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させる守護代を置きます。
越後上杉家7代当主・上杉房能の頃の守護代は長尾為景でした。
越後国当主交代の際の永正4年(1507年)8月、越後国守護代である長尾為景に担がれて定実は義理の父である房能を倒すと、永正5年(1508年)11月6日に正式に守護となり、越後上杉家8代当主となりました。
嫁の父を倒すって何してるねん!
実質的には守護代の長尾為景の傀儡に過ぎず、当主になった際に為景
(※房能の娘である妻は亡くなっていたようです。)
またこの時、宇佐美房忠から名刀「宇佐美貞光」を献上されている。
上杉家中での内乱
この当主交代の報復のため、房能の実兄で関東管領の上杉顕定が侵攻してきます。
顕定からすると、実の弟が殺されてるのでそりゃ怒りますね。
そのため永正6年(1509年)に長尾為景と共に越中国へ敗走しました。
永正7年(1510年)、越後の諸将を掌握できていない上杉顕定軍の内情を見て、4月20日に定実と為景の軍勢は越中から佐渡国を経由して蒲原津に上陸すると、佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し越後各地で顕定方の軍勢を破り、長森原の戦いで顕定を敗死させました。
傀儡であることに気づき為景に反撃
ところが次第に為景の傀儡であることに不満を抱き、永正10年(1513年)、守護家家臣筋の宇佐美房忠・定満父子や実家上条氏の上条定憲(弟、あるいは甥)、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けます。
定実が35歳くらいなので、一人前に考えられるようになり、実績もつき、味方も増えてきたためでしょう。
しかし、抵抗は失敗し一時的に幽閉されてしまいます。
ますます定実の権威は失墜していきました。
約20年後、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し、天文5年(1536年)8月3日に為景を隠居に追い込みます。
為景の跡を継いだ長尾晴景は求心力に欠けていたため、定実の権力は一定程度回復しました。
伊達家からの養子
定実には男子がなかったため、跡継ぎどうするのか問題が起こります。
そこで天文7年(1538年)頃、定実に養子の話が持ち上がります。
縁戚(定実の甥)である陸奥国の大名・伊達稙宗の子である時宗丸(のち偏諱によって実元と名乗る)との養子縁組を中条藤資(実元の母は藤資の妹)らに推進されます。
長尾為景も積極的に支援しています。
しかし揚北衆は伊達氏の養子に反対しています。
そのような中で、天文8年(1539年)9月に入嗣(にゅうし)反対派であった阿賀北小泉荘の本庄房長領に伊達氏の軍勢が侵入し、越後北部や出羽国での上杉傘下の国人領主同士の対立を招きます。
※入嗣・・・養子になり家に入ること
天文11年(1542年)4月、定実は長尾晴景に対して自らの出家を希望する起請文を送り入嗣の進展を迫り、6月に晴景は伊達氏の元に重臣の直江氏と平子氏を使いに送り、定実の諱である「実」の字を時宗丸に与えること、上杉氏重代の腰刀「長光」と「竹に雀」の家紋を贈ること、6月23日に時宗丸が越後へ出発することが決まりました。
しかし6月20日、伊達氏におけるお家騒動(天文の乱)が発生したため縁組は急遽中止され、養子の話は頓挫してしまいました。
景虎の擁立に尽力
天文年間末期には黒田秀忠の反乱も起きて越後は動揺するが、これを長尾晴景の弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が鎮圧したことで、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになりました。
天文17年(1548年)、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介して、景虎の擁立に尽力しました。
景虎が守護を代行
晩年は出家して玄清と名乗り、天文19年(1550年)に病死します。
定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で長尾景虎(上杉謙信)が越後守護を代行しました。
信長の野望での上杉定実
ゲーム信長の野望での上杉定実のパラメーターを見てみましょう。
統率 56 (1009 位)
武勇 45 (1609 位)
知略 61 (860 位)
内政 66 (503 位)
外政 65 (550 位)
合計 293 (771 位)
2200人中の順位です。
まさに平凡。
得意もなく、不得意もなく、アイコン画像も一度見たら忘れてしまいそうです。
当サイトではこのような埋もれてしまっている武将を発掘してます!
まとめ
いかがでした?
長尾為景という強力な人物に擁立され、定実の人生が大きく変えられてしまいました。
翻弄されながらも、歴史の表舞台で懸命に生き抜いた方なのかなと想像します。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。