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長宗我部元親に傀儡化された土佐の公家大名・一条内政(いちじょうただまさ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は土佐の公家大名・一条内政(いちじょうただまさ)について書いていこうと思います。
公家大名なので、メイン画像も公家っぽいです。
一体何をしたのでしょうかね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
一条内政の生まれ
土佐(高知県)の西側に位置する幡多郡中村で権中納言の一条兼定の嫡男として1562年に生まれます。幼名は万千代。
この一条家というのは、関白などを輩出する名門の家柄です。
本家の方は京にあるが、分家の一条家がこの土佐の地で一定の権勢を保っていました。
名の「内」という字は宗家の一条内基(うちもと)からの偏諱とされる。
京が恋しかったのか、この中村の地は「小京都」といい、景観が京都に似た造りをしていました。
父・一条兼定の追放から傀儡当主へ
土佐一条氏第5代当主となります。
天正2年(1574 一条内政が12歳の頃)2月に父・兼定が失政のため家臣団によって豊後国に追放されてしまいます。
これにより形式的な土佐国主となっていた、長宗我部元親を後見役として土佐一条氏第6代当主に擁立されました。
まだ幼いので政治はできないですね。
これによって、長宗我部元親が土佐国内の実質的な支配者となりました。
擁立の際に一条家中で内紛が起こり、これに介入した元親の意向により長岡郡大津城に移された。
中村の地は元親の弟・吉良親貞が治めることとなったが、一条内政は元親の娘を妻として大津御所と称され、厚遇を受けました。
天正8年6月26日、長宗我部氏と織田氏の連絡担当であった明智光秀の文書によると、長宗我部元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現されている。
つまり、長宗我部元親が土佐国主の一条内政を補佐しているという認識が当時されていたことがわかる。
謀反に加担し追放
しかし天正8年(1580)に元親への謀叛を企てた波川清宗(玄蕃)に加担したため追放に処され、伊予国宇和郡の法華津播磨守を頼る。
その地で病死したとも、元親によって毒殺されたともいう。
子の政親は久礼田定祐に養育されて「久礼田御所」と称されたが、ここに一条教房が応仁2年(1468)に下向して以来の土佐国一条氏は没落した。
実際に一条内政に謀反の意思があったかわかりませんが、傀儡当主はよく言いがかりをつけられ、謀反の疑いをでっち上げられ追放されていますよね。下克上の世の中です。
この頃一条内政は18歳ごろですから、自分で考えられるようになりなんかおかしいなと気づいてきたんでしょうね。それが邪魔になったのでしょう。
信長の野望での一条内政
ゲーム信長の野望での一条内政のパラメーターを見てみましょう。
統率 40 (1796 位)
武勇 22 (2195 位)
知略 34 (2093 位)
内政 50 (1322 位)
外政 42 (1713 位)
合計 188 (2100 位)
2200人中の順位です。総じて能力が低いです。
父の兼定同様、一条家はよく評価されていませんね。
まとめ
いかがでした?
父を追放した相手に最後は自分も追放されてしまう。
厳しい世の中です。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。