views : 2873
早雲時代からの由緒正しい北条家の重臣・大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は北条家臣の大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)について書いていこうと思います。
マイナーすぎる武将ですので、皆さんなぜこの方を調べようと思ったのでしょうか?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
大道寺盛昌の生まれ
大道寺盛昌の生まれは、明応4年(1495年)(1472年生まれの説もある)に後北条氏の家臣として生まれます。
父・大道寺重時(発専)は、北条早雲(伊勢盛時)と共に駿河へ同行した御由緒六家(ごゆいしょろっけ)の一人。大道寺政繁の父とも祖父、あるいは曽祖父とも言われているが、重時から政繁までは諸説あり、定かではない。そもそも早雲と一緒に駿河へ下向したのがこの盛昌である、とする異説もある。蔵人、駿河守を称した。
北条家の創設メンバー御由緒六家
北条早雲が伊勢国の大道寺・多目・荒木・山中・荒川・在竹の6人と親しく交友していた。
あるとき7人で関東へ修行に下ることになり、神水を酌み交わして「この中の誰か1人が大名になったら、他の者は家臣となってその人を盛り立て、国をたくさん治めよう」と誓い合い、それぞれ関東へ下った。
早雲は今川氏親から駿河国富士郡下方庄を賜った後、6人の兵を招いて伊豆国へ討ち入り、6人は早雲の家老となって伊豆国を治めた。
三浦浄心『北条五代記』には、大道寺太郎・多目権兵衛・荒木兵庫頭・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛尉と人名を補っている。
なんか男同士の友情・成功者への夢みたいな感じでいいですね。
御由緒家一覧
それでは、北条家の創業メンバーである御由緒家をみていきましょう。
今回紹介している大道寺盛昌はもちろん、多目元忠も見られます。
- 大道寺氏:大道寺重時、子孫に大道寺盛昌(氏康三家老)、大道寺政繁など。『寛政重修諸家譜』に家譜を載せており、もとは(伊勢国ではなく)山城国田原の奥の大導寺に住んでいたとされている。
- 多目氏(多米氏):三河国八名郡多米から出た。武蔵国橘樹郡青木(横浜市神奈川区)の豊顕寺はその菩提寺。多目新左衛門。子孫に多目元忠(北条五色備)
- 荒木氏:某
- 山中氏:山中主膳正、山中内匠助・孫七郎
- 荒川氏:荒川豊前守
- 在竹氏(有竹氏):在竹又太郎
大道寺盛昌の活躍
盛昌は、その北条早雲(伊勢盛時)の甥(厳密には従兄弟の子)にあたり、内政手腕に長けていたことから重用されたようです。
名前の「盛」の字も伊勢盛時(北条早雲)から1字を与えられたものとされています。
早雲亡き後は、早雲の嫡男の北条氏綱に仕えます。
里見義豊との鶴岡八幡宮の戦いで社殿が焼失した鶴岡八幡宮の再建のための造営総奉行に任じられて笠原信為とともに再建事業にあたったようです。
また、これに携わった北条為昌(北条氏綱の次男)の烏帽子親を務めて、為昌に「昌」の字を与えている。
為昌が玉縄城主に就任するとその後見役となり、これに関連して鎌倉の代官を務めた。
主君が氏綱から氏康に交代した後も、河越夜戦で扇谷上杉朝定を相手に奮闘して戦功を挙げ、戦後はこの河越城の城代を務めている。
7月12日に62歳で死去と伝えられている。
跡を嫡男の大道寺周勝(重興)が継いだ。
氏康三家老
大道寺盛昌はその優秀さから「氏康三家老」とされている。
他のメンバーも紹介しよう。
信長の野望での大道寺盛昌
ゲーム信長の野望での大道寺盛昌のパラメーターを見てみましょう。
統率 39 (1836 位)
武勇 41 (1787 位)
知略 50 (1494 位)
内政 74 (245 位)
外政 63 (640 位)
合計 267 (1201 位)
2200人中の順位です。造営総奉行をしているので政治面が高く設定されており、戦闘面のパラメーターはいまいち低めに設定されています。
いまいちパッとせず存在感が薄い存在となっておりました。
まとめ
いかがでした?
男の約束で、誰かが成功したら家臣として取り立てる。いいですね。
どんどん北条家の領土・規模が成長していき、子供同士が引き続き主従関係を保つ。これもなんかいいですね。
御由緒六家という名前があるほど特別で信頼関係が深い間柄だったのでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。