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穴沢俊光(あなざわとしみつ)は何をした人?伊達の侵攻を防いだ「北の門番」【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは蘆名家臣・穴沢俊光(あなざわとしみつ)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
蘆名家臣。伊達家の度重なる侵攻を撃退し続け、「北の門番」と恐れられた。伊達政宗の調略により、内応していた一族の奇襲を受け、自害した。
目次[非表示]
穴沢俊光の生まれ
穴沢俊光の生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1531年と設定されています。
父は会津蘆名氏に仕えた穴沢俊恒です。
穴沢氏は文明18年(1486年)あるいは永正元年(1504年)に葦名盛高の家臣・穴沢越中守俊家が桧原周辺の山賊を退治して町割りをし住み着いたのが始まりとされています。
陸奥耶麻郡桧原を支配し、戸山城や岩山城を築いて居城としていました。
この桧原という地域は蘆名領の北端部にあたり、吾妻連峰を挟んで北側は伊達氏の根拠地米沢であったため、常に伊達氏から狙われる危険性が伴っていました。
この蘆名の北端を守っていたのが穴沢俊光なので「北の門番」と呼ばれていたのですね。
伊達家を幾度も退ける
永禄8年(1565年 穴沢俊光が34歳の頃)、穴沢俊光は伊達輝宗の家臣・石川但馬守の侵攻を戸山城で父・俊恒と共に撃退します。
『檜原戦物語』では翌永禄9年(1566 穴沢俊光が35歳の頃)1月、伊達勢は幾度も蘆名領を攻めるも負け続きであったことから、不意の攻撃を考えて通常合戦を行わない雪深い時期に攻めてきます(一ノ渡合戦)。
伊達勢は村人が集まる二十三夜信仰の日を狙い、翌日の未明、約千人で桧原の町はずれの家に火をつけ襲います。
穴沢一族は、一時岩山城へ逃げるものの、父・穴沢俊恒や俊光らが大活躍し、敵の側面を襲い、伊達勢は一ノ渡で約300人が極寒の川に落ち、合計約530人を討取った言われています。
身内の裏切りにより自害
天正12年(1584年 穴沢俊光が43歳の頃)11月、俊光と対立していた一族の穴沢四郎兵衛が伊達政宗に内応し、政宗は四郎兵衛の手引きで1500の兵を派遣して桧原を急襲させました。
この時穴沢一族は、檜原宿に来た風呂屋(遊興・娯楽施設をともなったサウナ)で酒食に興じている最中でした。
伊達勢は大塩方面の道も塞いだため、退路を断たれた穴沢勢は混乱に陥り多くの兵を討たれ、籠城し奮戦するも戸山城と岩山城は落城します。
穴沢俊光は岩山落城の際に、一族と共に自害しました。
政宗はその後、岩山城の南・小谷山に城を築き(桧原城)、後藤信康を在番に配します。
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俊光の嫡男・俊次は所用でたまたまその場に居合わせなかったため難を免れ、その後柏木城に入り、蘆名氏滅亡後は蒲生氏郷に仕え、その子孫は会津松平家の家臣となったようです。
ゲーム「信長の野望」での穴沢俊光の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での穴沢俊光の評価を見てみましょう。
統率 72 (297 位)
武勇 79 (141 位)
知略 67 (552 位)
内政 53 (1155 位)
外政 59 (837 位)
合計 330 (367 位)
2200人中の順位で、特に戦闘面に関する統率と武勇が高く設定され「北の門番」の名に恥じていませんね。
まとめ
いかがでしたか?
伊達家の攻撃を幾度も防ぎ「北の門番」と恐れられた穴沢俊光。
城攻め・奇襲・合戦で勝てない場合は、次は謀略です。
一族の穴沢四郎兵衛が伊達政宗に調略されたため、落城し身を滅ぼす結果となりました。
無念だったことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。