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水心(すいしん)は何をした人?長宗我部元親を妻として支え中央政権との架け橋となった姫【戦国時代の女性】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
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水心の生まれ
天文14年(1545年)水心は石谷光政の娘として誕生。
母は蜷川親順の娘。義理の兄(姉の夫)に石谷頼辰がいる。斎藤利三はその頼辰の弟です。
石谷光政はおそらく土岐一族でしょう。
斎藤利三というと明智光秀の右腕であり、斎藤利三の娘、つまり水心の従姉妹に福(後の春日局)がいます。
長宗我部氏の流れ
一方夫となる長宗我部元親を見てみましょう。
元々は土佐国長岡郡の国人であった長宗我部氏は20代当主・長宗我部国親の代から勢力が拡大していき、21代・元親の代で最盛期を迎えます。
中央政権である信長との外交を古くから積極的に進めており、元親の嫡男の信親の「信」は信長から字をもらっています。
信長政権下で長宗我部とのパイプ役であったのが筆頭家老の明智光秀であり、光秀の右腕である斎藤利三の親戚の子である水心と元親は婚姻を結ぶことで、織田家と同盟します。
織田家の後押しもあり土佐統一後、伊予国(愛媛県)や阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)にも進出していき、1585年には四国をほぼ統一します。
長宗我部元親との婚姻
先ほど述べたように、永禄6年(1563年)、長宗我部元親25歳の時に土佐国へ輿入れをします。
輿入れの際には元親が京都へ上洛したといわれている。
その後、水心は信親・親和・親忠、大阪の陣で活躍した盛親・一条内政正室・吉良親実正室・阿古姫(佐竹親直正室)・吉松十右衛門正室と4男4女を生みます。
元親は側室を1人しか持たなかった事から、元親と妻の夫婦仲は良かったのだと思われます。
天正11年(1583年)、死去。墓所は不明。
本能寺の変の発端
このように水心は長宗我部家と織田家と架け橋でした。
同盟関係が続いていたのですが、信長が石山本願寺・武田勝頼と強敵を滅ぼし、敵が中国地方の毛利輝元、北陸の上杉景勝などに絞られると、長宗我部氏の四国切り取り自由の約定を反故とし、土佐一国と阿波二郡を安堵するので兵を引くように命じた。
お前はでかくなりすぎだと一方的に怒ってきたんですね。
もちろん元親はこれを突っぱねると、信長は三男・織田信孝を総大将とし、四国征伐の遠征軍を向かわせようと準備を行いました。
その際に起こったのが本能寺の変です。
本能寺の変の動機は様々出回っていますが、この四国征伐の決定は非常に重要な原因と考えられます。
長宗我部氏は明智光秀に援助の手紙を何度も送っていました。縁戚である長宗我部氏を助けるため、今後約束を反故にする信長では泰平な世の中にはできないと考えたことでしょう。
水心が登場する作品
司馬遼太郎先生の「夏草の賦」という長宗我部元親を主人公とした作品では、菜々という名で登場します。
ゲーム「信長の野望」での水心の評価
ゲーム「信長の野望 大志」では、姫武将の能力が比較的高く設定されがちというフィルターを踏まえて水心の評価を見てみましょう。
統率 73 (268 位)
武勇 65 (562 位)
知略 67 (552 位)
内政 53 (1155 位)
外政 70 (357 位)
合計 328 (388 位)
2200人中なので、全体的に上の下くらいでしょうか。
実際は戦に出たりすることはなかったでしょうから、ゲーム上の数値と考えておきましょう。
まとめ
いかがでしたか?
長宗我部と織田(明智)を繋いだ水心。
戦国時代の女性の典型的な政略結婚ですが、4男4女を生みました。
しかし豊臣政権下で長宗我部征伐が行われ元親は降伏します。
ゲームのグラフィック通り、笑顔な人生であれば良いのですがどうだったのでしょうか?
それでは、今後も戦国時代の女性の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
元親夫人(wikipedia)
長宗我部元親の人物像やその妻について。子孫は続いてる?
戦国武将 斎藤利三の子孫が住むといわれる片又木
長宗我部氏(wikipedia)