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高屋良栄(たかやりょうえい)は何をした人?一色家の守護神【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは生粋のマイナー武将・高屋良栄(たかやりょうえい)です。高屋駿河守良閑とも言います。
大抵の武将はwikipediaがあるんですが、この方はまだありません。
誰か作ってあげてください。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
高屋良栄の生まれ
正確にいつ生まれたはわかりませんが、ゲーム信長の野望では1530年に誕生したと設定されています。
中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後(現在の京丹後市)を領した一色家に高屋良栄は仕えていました。
天正の頃には丹後の中世山城跡としては典型的なものの1つである下岡城を居城としました。
一色家でうまく守備する
天正7年(1579年)に一色義道が自害すると、一色義定が家督を継承し、残党を率いて織田方に抗戦します。
織田方である細川勢が丹後に侵入した際には、高屋良閑や子の高屋駿河入道がうまく守備しています。
一色家は善戦したため手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後を長岡氏(細川氏)と分割統治することになりました。
本能寺の変後に訪れた滅亡
天正10年(1582年)、本能寺の変の後、一色家は上役である明智光秀に味方するも、光秀が敗れ立場を悪くしていきます。
同年9月、一色家は秀吉により謀反の疑いをかけられ、親秀吉である細川藤孝は弓木城の一色義清に攻撃します。
細川藤孝は3年前に攻めきれなかった、悔しさがあったことでしょう。
一色軍は細川軍に攻められるも下岡城では城主・高屋良栄、子の遠江守が、木津城主・赤尾但馬守、高橋城主・今井能世次郎、公庄城主・森忠左衛門、舞鶴の佐武ケ岳城では城主・坂根修理亮らがそれぞれ籠城し守っていました。
近隣の武将が結集して対抗したのでしょう。
しかし、下岡城は細川興元勢に攻撃を受け落城し、高屋良閑、高屋遠江守は討死します。
ゲーム「信長の野望」での高屋良栄の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での高屋良栄の評価を見てみましょう。
パラメーターの合計値が2200人中約1800位と低めに設定されています。
一色家を支えるも、その一色家がいまいち存在感が薄いの納得感があります。
まとめ
いかがでしたか?
織田軍が丹後侵攻を防いだ一色家はやはりすごかったと思います。
そんな中で活躍したであろう高屋良栄という人物が今後垣間見れたら記事を更新していきたいと思います。
なかなか彼に関する資料が出てこず貧相なボリュームになってしまいましたが、そういった方にもスポットを当てていきたいと思っています。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
丹後・下岡城 一色氏滅亡の影で犠牲となった家臣たち
下岡(しもおか) 京丹後市網野町下岡
一色義道(wikipedia)