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上田重安(うえだしげやす)とは?現代にも続く茶道・上田宗箇流の祖【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは浅野家の家老・上田重安(うえだしげやす)です。
別名・上田宗箇。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
豊臣家臣。九州征伐、小田原征伐などに従軍した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後改易される。のち浅野家に仕え、大坂の陣に出陣した。茶人としても著名。
上田重安の生まれ
永禄6年(1563年)、上田重安は上田重元の子として尾張国愛知郡星崎村で生まれます。
父・上田重元や祖父・重氏は丹羽長秀の家臣で、重安も元服後は丹波長秀の家臣として各地で転戦しています。
重安が10歳の頃に父が死亡したため、それからは祖父に育てられました。
1573年には、丹羽長秀は越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わっており、この時の戦いで父・上田重元は亡くなったのでしょう。
もともとは小笠原姓を名乗っていましたが、重安の代で上田と改めました。
丹羽長秀
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
本能寺の変そして豊臣家臣へ
天正10年(1582年 上田重安が19歳の頃)6月、本能寺の変が起こると、丹羽長秀と信長の三男・神戸信孝は明智光秀の娘と婚約していた津田信澄(信孝にとって従兄弟にあたる)が明智光秀と関与していると疑います。
津田信澄が駐屯していた大坂城千貫櫓を攻撃し、上田重安が見事津田信澄の首を挙げました。
ちなみに津田信澄の長男・織田昌澄は、父が殺されると父の旧臣・藤堂高虎を頼ります。のち豊臣家に仕え、大坂の陣後、高虎に助命され旗本となりました。
丹羽家が近江国内に領土を与えられた時に高島郡の代官として大溝城に入城します。
1583年の賤ケ岳の戦いの後に丹羽家が越前に移封されると1万石を与えられました。
天正13年(1585年 上田重安が22歳の頃)に長秀が死去すると、その子・丹羽長重は豊臣秀吉に難癖をつけられ若狭に減封され、家臣団の多くが解雇され、一部は豊臣氏の直参として召し上げられました。
この際に重安は秀吉の直臣となり、越前国内で1万石を与えられ大名となりました。
天正14年(1586年 上田重安が23歳の頃)、京都方広寺の大仏殿の造営監督を務めます。
天正15年(1587年 上田重安が24歳の頃)の九州征伐に従軍し功を上げる。
天正18年(1590年 上田重安が27歳の頃)の小田原征伐では、秀吉の本陣・脇備えで300騎を率い功をあげました。
それを賞され秀吉の妻・高台院の従弟である杉原長房の娘を娶ります。
文禄元年(1592年 上田重安が29歳の頃)の文禄の役では、肥前名護屋城に駐屯。
秀吉の本陣前備衆のうちで200名を率いたが、渡海はしていません。
文禄3年7月29日(1594年 上田重安が31歳の頃)、従五位下・主水正に叙任され、豊臣姓を与えられます。
慶長3年(1598年 上田重安が35歳の頃)、秀吉の死により遺物・直家の刀を受領しました。
茶人・宗箇となる
慶長5年(1600年 上田重安が37歳の頃)、秀吉の元で活躍し、豊臣姓を与えられたりしたためか、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、大坂甲津口を警備し、その後北国口の防備へ移動し、東軍の前田利長の押さえとして、旧主・丹羽長重の籠もる加賀小松城に駐屯しました。
敗戦後、領地を没収され摂津国に流遇し、剃髪しました。
ここで宗箇と名乗り、その後は上田宗箇(うえだ そうこ)の名でも知られるようになっています。
茶道を千利休ついで古田織部に学び、上田宗箇流の流祖となり、茶人・造園家としても業績を残します。
蜂須賀家政に強く請われその客将となり、阿波国徳島に移り、この間に家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭しています。
浅野家の家臣へ
上記の通り重安の妻は、秀吉の妻・高台院の従弟である杉原長房の娘です。
この杉原長房の別の娘を(浅野幸長の父)浅野長政と(浅野幸長の子)浅野長晟はそれぞれ養女にしていたため、紀州藩主浅野幸長と上田重安は重縁の関係にある姻戚でした。
浅野幸長
豊臣家臣。長政の嫡男。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、紀伊和歌山37万石を領する。のちに加藤清正と協力し、徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現させた。
浅野長政
豊臣家臣。秀吉の正室・寧子の義弟。五奉行筆頭として主家の執政に参画した。秀吉の死後、石田三成と対立して徳川家康に接近し、以後は徳川家に仕えた。
浅野長晟(あさのながあきら)
徳川家臣。長政の次男。兄・幸長の死後紀伊和歌山藩主となる。大坂夏の陣では塙直之を討ち取るなど活躍した。福島家の改易後、安芸広島42万石を領した。
その縁により慶長7年(1602年 上田重安が39歳の頃)浅野家の家老となり、1万石を与えられます。
この時に徳川家康から許されて還俗し、再び主水正を名乗ります。
taka
徳島から和歌山に行ったのですね。
浅野家に仕えている間、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭しています。
慶長19年(1614年 上田重安が51歳の頃)の大坂冬の陣では浅野幸長の子・浅野長晟に従って従軍します。
戦功に対しての褒美に不満があり一時奈良に移り住むも、当主・浅野長晟に頼まれ浅野家に戻っています。
慶長20年(1615年 上田重安が52歳の頃)の大坂夏の陣では、樫井の戦いにて奮戦し敵方の大将の1人である塙団右衛門直之の首級を挙げ武功を上げます。
そのことにより、将軍徳川秀忠と大御所徳川家康から激賞されました。
元和5年(1619年 上田重安が56歳の頃)、浅野家が和歌山藩から安芸広島藩に移封されると、上田重安は領土の要所である芸州佐伯郡小方村(現大竹市小方)1万2,000石を与えられました。
後に1万7,000石に加増されます。
泰平となった世の中では茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家の別邸縮景園を作庭した他、江戸幕府に請われ名古屋城二の丸庭園の作庭も担当しています。
また、寛永元年(1624年 上田重安が61歳の頃)2月に、浅野家家臣の亀田高綱が上田と衝突して浅野家から退去します。
重安の数々の武功は世間にも広く知られており、江戸幕府より直参として出仕を求められましたが、重安はそれを固辞して浅野家に留まりました。
代わりに嫡男の上田重秀を寛永9年(1632年 上田重安が69歳の頃)に徳川家に出仕させました。
重秀は近江野洲郡(現・滋賀県守山市服部町)に知行を与えられ服部村に服部陣屋(服部城)を構えます。
子孫は代々相続し、大身旗本として江戸幕府に仕えました。
次男の上田重政が広島藩浅野家の家老職を相続し、子孫は代々小方を領し藩士として続きました。
三男(養子)の上田可勝は肥後藩細川氏に仕えています。
浅野家の最後
慶安3年(1650年)5月30日、重安は88歳で没します。
遺体は広島県佐伯郡大野村(現廿日市市大野)の串山で荼毘に付せられた後、遺骨を砕いて大野瀬戸(広島湾の厳島と本土の間の狭い海峡)に流し、遺髪を浜辺の松林に埋めて塚としたようです。
広島県廿日市市沖塩屋の墓所には松が1本植えられており、墓石はない。初代の松は枯死したが、2004年(平成16年)に2代目が植えられたようです。
現代まで続いている茶道・上田宗箇流
文化人としても有名な千利休に茶の湯を学び、秀吉の命により利休が亡くなると古田織部の弟子として茶道を極め、宗箇流という武家風の流派を確立します。
家元が広島市西区にあるのは、上田重安の所領が広島県大竹市(広島の最西端)だからでしょう。
宗箇流について
- 男性、女性で茶道の点前が異なる部分がある。
- 男性と女性の礼の仕方が異なっている。
- 袱紗は右の腰につける。 (刀を差していた名残)
- 点前の中の柄杓の構え方、扱い方、帛紗の扱い方が独特である。 (男性は馬上の姿→柄杓で湯水を汲む動作に弓矢をつがえる動作が残る、など)
- 点前が直線的で、外へ外へと向ける動きが繰り返されてる。
上田重安は名品を数多く残しています。
大坂夏の陣の樫井の戦いで、竹藪に隠れていた折りに、美竹を見つけて茶杓を削りはじめ、あまりに無心に削っているため敵兵がかえって怪しんで逃げたという逸話があり、「敵がくれ」はこの時の茶杓と伝えられている。息子・重政に継がせています。
佐伯郡浅原村(現・廿日市市)に隠居して茶の湯三昧の生活を送っていた時に作った茶碗『さても』などの代表作があります。
また作庭師としても手腕を発揮して徳島城下の千秋閣庭園・紀伊の粉河寺庭園・広島城下の縮景園などを手がけています。
ゲーム「信長の野望」での上田重安
歴史シミュレーションゲーム「信長の野望 大志」では、武将の能力値合計が2200人中約1970位と結構低いです。
政治パラメーターは700位台で高めに設定されています。
塙直之の首級を挙げるなど武功をもう少し反映して欲しいものです。
気質が「芸道」なので、茶人としての評価があったためでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
上田宗箇流の祖である上田宗箇重安。
当時は、一番槍の功を立てる程、武勇に長けた武将でしたが、千利休・古田織部の元で茶道を極め、宗箇流を確立しました。
茶道にはあまり詳しくなかったですが、この機会にちょっと詳しく調べてみようかと思いました。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!
参照
ウィキペディア(Wikipedia)上田重安
https://tikugo.com/osaka/busho/asano/b-ueda.html