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【わかりやすく解説】「清洲会議」日本史上初めて、戦ではなく会議で歴史が動いた瞬間
こんにちは、takaです。
今回は日本史上初めて、戦ではなく会議の席上で歴史が動いた「清洲会議」について記載していきたいと思います。
「清洲会議」とは何なのか、どのような思惑で乱世を生きる人々は動いていったのかを詳しく解説していきます。
さっそく見ていきましょう。
目次[非表示]
織田家の勢力図
清洲会議の説明の前にまず時代背景を知ることが重要です。
時は戦国時代(1580年代)。
当時の日本の中心部をほぼ支配している織田家の勢力図を見ていきましょう。
織田信長は人材登用において当時珍しく家柄よりも能力を重視し、破竹の勢いで勢力を拡大していました。
全盛期(1582年の本能寺の変前)の織田家は各方面に敵を抱えており、優秀な家臣を軍団長としてそれぞれの方面を対応させていました。
柴田勝家
柴田勝家(しばたかついえ)は父の代から織田家に仕え、現在は織田家の筆頭家老でした。
tips!
家老とは武家の家臣の中で最高の役職です。特に筆頭家老というのはいく人かいる家老の中で最も地位が高いものになります。
「鬼柴田」と言われるほど豪傑な人物で、戦ではたくさん武功を挙げていました。
信長より12歳年上で、他の家臣から「親父」と呼ばれていました。
そんな柴田勝家は北陸で上杉家の攻略を担当していました。
そのほかに前田利家(まえだとしいえ)や佐々成政(さっさなりまさ)も同行しています。
羽柴秀吉
羽柴秀吉(はしばひでよし)後の豊臣秀吉は、草履取りから大出世し、宿老になっていました。
先ほどの柴田勝家からはよく思われておらず、反りがあわなっかったようです。
そんな秀吉は、播磨(兵庫県)を制定したのちに、中国(地方)の覇者である毛利輝元(もうりてるもと)と対峙していました。
秀吉は毛利の前線基地を次々と攻略していきましたが、岡山県の備中高松城の攻略に手こずっていました。
備中高松城は沼に囲まれた天然の要害で、しかも日本一の武辺者と呼ばれた清水宗治(しみずむねはる)が守っていました。
しかし城攻めの名手秀吉は、堤防を作り川から水を流し城があたかも湖に浮いているようになってしまいました。
これが日本史上初の備中高松城の水攻めです。
秀吉の城攻めが土木工事と言われている所以ですね。
水攻めは成功しましたが、毛利の援軍が備中高松城の近くに布陣し、膠着状態になっていました。
明智光秀
明智光秀(あけちみつひで)は、畿内を担当していました。
畿内は信長にとって最も信頼がおける光秀に任せていたのですね。
畿内は重要な京の都があり、西国・四国・北陸・関東の中心部という地理的にも重要な地域なので、そこの担当(近畿管領)であるということは実質織田家のナンバー2であるという意味を持っていました。
他には細川幽斎(ほそかわゆうさい)や筒井順慶(つついじゅんけい)などが畿内に配属されています。
丹羽長秀
丹羽長秀(にわながひで)は、柴田勝家に次ぐ2番家老を与えられ、勝家とならび織田家の双璧と呼ばれた人物で、遊撃軍として畿内に配置されていました。
四国の長宗我部(ちょうそかべ)家を攻める準備を畿内で行っていました。
滝川一益
滝川一益(たきがわいちます)は、関東管領として関東の鎮定を行なっていました。
織田信長
信長はというと長男である信忠(のぶただ)と共に京都にいました。
摂津有岡城主の荒木村重(あらきむらしげ)の謀反や十数年続いた浄土真宗本願寺派の一向一揆を鎮圧し、各方面を優秀な家臣達に任せ、天下統一が現実味をおびてきだした頃です。
本能寺の変
信長は甲斐(山梨県)の武田家との戦に勝った徳川家康(とくがわいえやす)を労うために、京都に徳川一派を招きました。
そこでかの有名な「本能寺の変」が起こるのです。
本能寺で眠っている信長。
「敵襲!敵襲!」
そう聞こえるとすぐに起き、頭を巡らせる信長。
信長は少数の兵数のみで京都にいます。
敵襲はまずい。
徳川か?
いや徳川家康は軍隊ではなく少人数で来ているはず。
四国の長宗我部か?
いや京に来るには、畿内に配属している別の織田家の部隊にまずぶつかるはず。
信長「敵は謀反か?」
家臣「明智の物でございます。」
信長「是非に及ばず(どうしようもない)」
有名なシーンですね。
※「是非に及ばず」と言ってない説もあるらしいですが、どうしようもないという心境には変わりがなかったと思います。
明智光秀の意表をついた謀反は成功したのである。
しかし戦国の乱世を生き抜いていたある武将はその波乱を嗅ぎつけ、凄まじい速度で光秀に迫りよるのです。
中国大返し
備中高松城(岡山県)で空前絶後の水攻めを行なっている最中であった秀吉軍は、怪しい飛脚を生け捕り本能寺の変を知ります。
秀吉が信長の訃報に泣き崩れる中、秀吉の軍師 黒田官兵衛(くろだかんべえ)は「ご武運が開ましたな」と主君の天下人としての道が開けたことを予見しました。
現在戦っている毛利軍の外交僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい かっこいい名前だ)と早急に会談し、和睦を結びます。
和睦の条件で備中高松城の城兵を助けるために日本一の武辺者と呼ばれた清水宗治が切腹を行います。
あっぱれな切腹であったと秀吉は残しています。
その後世に有名な中国大返し(備中大返し)が行われます。
数万の大群を岡山県から京都府まで雷光の速さで行軍していきます。
遅れている兵士はもう待ちません。
速さが大事です。
黒田官兵衛は先回りして夜道でも走れるよう道に予め松明を用意してさせたり、兵庫県の姫路城ではおにぎりを大量に準備させます。
秀吉は財産を自分の兵士達にくれてやります。
この戦いに負ければもう死だからです。
一世一代の大勝負です。
結果は秀吉軍の勝利。
明智を滅ぼし、信長の仇を見事討つことに成功しました。
織田家の跡継ぎ
絶対的な織田信長という支配者と、信長の長男である信忠(のぶただ)を同時に失った織田家家臣。
織田家の後継ぎを早急に決めないといけません。
家臣達はそのような状況下でどう立ち回るか互いに様子を伺っていました。
事態の収拾を図るため各地に散らばっていた柴田勝家をはじめとする織田家の重臣達は愛知県の清洲城に集まりました。
清洲城はかつて信長が大改修を加えた後、本拠として居城したいわば始まりの城といったところだ。
※後ほど出てくる三法師がいたためという見方もあったようです。
清洲会議とは
前置きが長くなって申し訳ない。
ここからが本題です。
清洲会議とは織田家の跡継ぎを宿老たちで決める会議のことを言います。
織田家の家系図はこうである。
信長の嫡男である信忠が引き継ぐべきだが、信忠もまた本能寺の変に巻き込まれ自害している。
ならば次は誰でしょうか?
普通なら次男になりますよね?
しかし次男 織田信雄(おだのぶかつ)はうつけ者で評判が良くありません。
そこで三男 織田信孝(おだのぶたか)も後継ぎの候補に上がったのである。
三男 信孝は人心を集め、戦でも功を上げています。
秀吉のことが大嫌いだった筆頭家老・柴田勝家は三男の信孝を次期当主に推薦しました。
tips!
秀吉は元々、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗っていました。百姓の身分ながらも実力で織田家の家老に加わりましたが、それを嬉しくないものがもちろんいます。柴田勝家ですね。柴田勝家は父の代から織田家に使えており、ぽっと出の木下藤吉郎なんか認めたくなかったのです。しかし、秀吉は羽柴藤吉郎秀吉と名前を変えるのです。羽柴の「羽」は丹羽長秀から、羽柴の「柴」は柴田勝家から取っています。
これは秀吉の人たらしのところで、先輩の苗字から一字ずつもらい仲良くしていきたい、尊敬してますっていう意思表示だったんでしょうね(表向きは)。
それでも柴田勝家には死ぬまで嫌われていたようですが。
残りの宿老の丹羽長秀は柴田勝家の旧友ということもあり、柴田勝家サイドの三男につき、滝川一益は敗走中のためまだ清洲城についていません。
滝川が到着すると柴田側に味方するだろうと予想されていました。
議論では信長の次男信雄と三男信孝どちらかを次期当主とするかで意見が交錯しました。
早く次期当主を決めたいが4日経っても滝川が来ません。
そこで滝川の代理の宿老として池田恒興(いけだつねおき)をおきました。
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興の4人で清洲会議を行います。
清洲会議当日
柴田勝家は三男を推しました。
柴田勝家「織田の次なる当主は三男の信孝様で依存はあるまいか?」
羽柴秀吉「柴田殿、待たれよ。」
羽柴秀吉「織田家の次なる当主は信雄様でも信孝様でもなく、三法師様と考えまする。」
秀吉は信長の長男である信忠の長男(信長から見て孫)の三法師(後の織田秀信)を次期当主として推したのである。
何という荒技!!
度肝を抜かれる柴田勝家
三法師は幼く、戦や政治はできないのは明白。
柴田勝家は突っかかります。
羽柴秀吉「しかし三法師様は先の当主・信忠様のご嫡男。正当でありまする。」
少しややこしいが、信長が存命だった頃、既に嫡男信忠に家督を譲っていました。
なので当主の信忠の嫡男である三法師こそが正当な次期当主と秀吉は主張したのです。
そして味方と思っていた丹羽長秀も、明智光秀を討った秀吉の発言力の大きさ、一方自分は京都にいながら活躍しなかったこと、秀吉の天下人としての器の大きさ、そのようなことから秀吉に味方したのです。
清洲会議では家督相続決めの後に領地の配分の決定を行います。
池田恒興は領地配分で秀吉側に立った方が優位に立てるとみ、秀吉サイドに回ります。
三法師 : 3
三男 : 1
で三法師が家督相続されることに決定しました。
政治ができない三法師を秀吉が後見します。
これは実質秀吉が政治をしていることに変わりがありません。
織田家中の勢力図が秀吉中心に大きく塗り変わったということを意味しています。
清洲会議の後
新当主のお披露目の時、おもちゃ(木で作った木偶の坊)で三法師を手懐けていた秀吉は、三法師を腕で抱えながら当主の席に座り、
「ここにいますのは織田家当主三法師様である。皆のもの控えよ」
織田家の家臣たちが次々と三法師の方、つまり秀吉に向かって頭を下げるのです。
ここが面白いですね!
清洲会議に携わった人たちのその後
柴田勝家とお市の方
勝家はお市の方(信長の妹)と結婚し、自分の領地へ帰っていきます。
その後、勝家は三男と協力し秀吉討伐の軍を挙げますが、賤ヶ岳の戦いで破れてしまいます。
余談ですが、その時に活躍した秀吉側の家臣が「賤ヶ岳七本槍」といい
後の秀吉政権を支えていきます。
またお市の方の子供、浅井三姉妹のうちの茶々は秀吉と30歳ほど歳が離れていますが、秀吉の唯一の子(豊臣秀頼)を身篭り、秀吉亡き後の豊臣政権を牛耳っていきます。
茶々にしてみると、自分の兄、父、母、母と再婚した父全てを葬ってきた秀吉の妻になることはこの上なく苦痛のことと思いますが、秀吉とは似ても似つかない長身イケメンな子供を身篭り豊臣政権を乗っ取ることが彼女の復習だったのかもしれません。
丹羽長秀
丹羽長秀は賤ヶ岳の戦いでは秀吉側につき、戦後123万石の有数の大名になりました。
池田恒興
池田恒興は清洲会議ののち、大阪・兵庫・西宮を拝領しました。
秀吉政権下で秀吉VS家康の戦いである小牧・長久手の戦いで戦死しました。
滝川一益
柴田勝家と共に羽柴秀吉を弾劾したが、賤ヶ岳の戦いで敗れ降伏。
三法師
秀信(ひでのぶ)と名を改めました。
関ヶ原の戦いでは石田三成(いしだみつなり)の西軍についたため、高野山に追放になりました。
追放後、26歳で亡くなられました。
次男織田信雄
織田信雄は秀吉政権下、徳川家康政権下でも細々と武功をあげ、73歳まで生きた。
三男織田信孝
柴田勝家と共に羽柴秀吉を弾劾した。
三法師を安土に戻さないことなどを秀吉に大義名分とされ、信孝打倒の兵を挙げられてしまう。
賤ヶ岳の戦いで敗れ自害した。
羽柴秀吉
秀吉は皆さんご存知のように、織田家での発言権が高まり、勝家を倒した後、中国地方の毛利と和睦、四国の長宗我部を討伐、九州攻めで島津が降伏、東北の雄伊達政宗が降伏、最後は関東の北条家が降伏し日本史上初めて日本統一を果たします。
まとめ
いかがでしたか?
日本史上初めて、戦ではなく会議で歴史が動いた瞬間「清洲会議」。
秀吉の天下人としての片鱗が見えましたね。
三法師を抱いて織田家臣達がひれ伏した時はさぞ嬉しかったことでしょう。
今後も歴史にまつわることを発信していきますのでよろしくお願いします。
あとがき
細かい箇所は様々な説がありますが、清洲会議を機に秀吉の織田家内での発言権が増したということは変わらないので、そこだけ覚えておいてください。
「この記事のここは違う、こうだろ。」など、ご意見ある方はtwitterのDMでよろしくお願いいたします。