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奥重政(おくしげまさ)は何をした人?信長・秀吉を苦しめた根来衆の砲術家【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは奥重政(おくしげまさ)です。
超マイナー戦国武将なので、小説やゲームなどで彼に出会えたあなたはラッキーです!
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
根来衆の父を持つ
奥重政は永禄3年(1560年)に奥義弘の子として誕生します。
父・奥義弘は那賀郡安楽川荘上野村の領主で根来衆の目頭です。
奥家は郷士で高野山を守護する家柄でした。
通称弥兵衛。別名奥野弥兵衛。根来衆(ねごろしゅう)の砲術家。
taka
奥重政は紀伊国(和歌山県)の北部あたりの人なんですね。
この辺りは、高度な鉄の鍛造技術があった可能性が高く根来衆は雑賀衆などと協力し鉄炮の所有数をどんどん増やし武装していました。
奥重政が所属していた根来衆とは
根来衆は、紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市)に居住した僧兵たちの集団で、雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍していました。
砲術を極める
永禄13年(1570年 奥重政が10歳の頃)、織田信長による「石山合戦」にて本願寺側に付き、父奥義弘とともに参陣します。
天正3年(1575年 奥重政が15歳の頃)、根来衆の津田算長・子の津田算正に属して根来寺に入り砲術を学びました。
津田算長は火縄銃の名手で、日本における鉄砲術の基礎を編み出したとされ、「津田流砲術」を創始した方です。
ゲーム信長の野望では、津田算長は2200人中上位10%くらいの高い能力値の武将です。
taka
織田家などの敵勢力の侵略に対抗するため、15歳にして砲術を学んでいったのでしょう。
根来衆なので砲術を学ぶのは自然な流れですが、奥重政は数年で奥義を極めてしまいます。
奥重政の活躍
天正13年(1585年 奥重政が25歳の頃)、羽柴秀吉の「第二次紀州征伐」にも奥重政は戦に参加します。
学んだ砲術を活かし 秀吉を苦しめます。
天正18年(1590年 奥重政が30歳の頃)、奥家の家督を相続する。
天正20年(1592年 奥重政が32歳の頃)、天瑞寺に寄進された10,000石の管理を巡り、吉仲荘調月村の中勝助と対立しました。
文禄4年(1595年 奥重政が35歳の頃)、氏家行広に仕えて鉄砲組組頭となった。
氏家行広は豊臣家臣として小田原征伐で功を挙げ、伊勢国桑名2万2,000石に加増移封されていました。
慶長5年(1600年 奥重政が40歳の頃)、「関ヶ原の役」では氏家行広が石田三成勢に属したため、所領を失い浪人となります。
その後、紀州藩主となる浅野幸長が奥重政の砲術に興味を示し、1600年、浅野幸長に仕えて、谷衛友に属し1,000石を領しました。
taka
奥重政は地元の紀州藩(紀伊国)に帰ってきたのですね。
1612年亡くなる。享年52歳。
谷衛友の逸話
慶長5年(1600年)関ヶ原の役が始まると、奥重政が属している谷衛友は西軍の一翼として舞鶴田辺城に細川藤孝(幽斎)を包囲したが、かねてから幽斎と親交があったらしく、弾丸を込めず空砲を撃つ。これが「谷の空鉄砲」と呼ばれています。
奥重政はこの場面にいて指揮をしていたかもしれませんね。
ゲーム「信長の野望」での奥重政
ゲーム「信長の野望 大志」では、能力値合計が2200人中259位と高いです。
同じ根来衆の津田算長も285位と高く、織田信長・羽柴秀吉を苦しめた実績が評価されていますね。
まとめ
いかがでしたか?
ゲーム信長の野望でも根来衆や雑賀衆の武将は、戦闘力が高く必殺技が強いので敵にすると嫌ですよね。
鉄砲使ってくるし。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!