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島津忠長(しまづただなが)は何をした人?島津四兄弟の優秀な従兄弟【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは島津家臣・島津忠長(しまづただなが)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
島津忠長の生まれ
天文20年(1551年)島津貴久の末弟・島津尚久の嫡男として誕生しました。
島津なのでもちろん鹿児島ですね。
島津家15代当主・貴久は日新公の長男なので忠長の叔父にあたります。
有名な義久、義弘、歳久、家久の四兄弟とは従兄弟同士になります。
総大将そして老中へ
天正元年(1573年 島津忠長の22歳の頃)大隅国での肝属兼亮との戦いで、南薩摩の兵を率いて攻めてくる敵を側面から迎撃してこれを破り、翌年の大隅牛根城攻めで、落城させる活躍をしました。
天正4年(1576年 島津忠長が25歳の頃)日向高原城の伊東氏攻略に当たり、大隅串良城(鹿児島県串良町)の地頭に補任されました。
天正6年(1578年 島津忠長が27歳の頃)耳川の戦いに従軍し功を上げます。
天正9年(1581年 島津忠長が30歳の頃)の肥後国水俣城攻めでは脇大将を任されました。
天正11年(1583年 島津忠長が32歳の頃)10月、島津の分家としてはただひとり義久、義弘を補佐する老中に任じられ天正15年(1587年)まで務めています。
taka
着実にキャリアを積み重ねた結果です!
天正12年(1584年 島津忠長が33歳の頃)島津家久と共に肥前有馬氏の援兵として島原へ渡海し、沖田畷の戦いで軍功を挙げました。
義弘から医術を伝授される
同年10月1日から7日までの一週間にかけて、島津義弘から金瘡医術の伝授を受け、秘伝の医書を与えられています。
※金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のこと。
高橋紹運との岩屋城の戦い
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を軍門に降らせたことで、筑前国に迫るほど領地を拡大し、勢いを急速に伸ばしていました。
この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、東肥前の筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していき、翌年には肥後の阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていました。
大友討伐のため、島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢20,000余人が出陣しました。
まず出兵直前に大友側に寝返った筑紫広門を勝尾城で下したため、筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下だけでした。
島津忠長が攻める岩屋城には高橋紹運含む763名の城兵が籠もっています。
岩屋城
岩屋城は福岡県太宰府市浦城にあった山城である。築城時期は天文年間とされ、大友氏の武将「高橋鑑種」が築城したと伝えられており「立花山城」と共に大友家の筑前支配の重要な拠点であった。
1586年(天正14年)7月12日島津軍は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切り、徹底抗戦を行いました。
このとき、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われています。
降伏勧告は島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつの計5回行わているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っています。
7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始。
島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けており、わずか800にも満たない城兵の決死の反撃と紹運の采配により島津軍は4,000人もの死傷者を出しました。
城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じませんでした。
籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けました。
多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけに。
紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。
紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りました。
落城後、島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっています。
※最後まで主家に従った高橋紹運の名声は現代に至るまで高まり、岩屋城跡近くに紹運の墓が建立しています。
この攻防戦で島津軍は多数の将兵を失ったため、体制を整えるためその後方の「立花山城」への攻撃が遅れてしまいます。
その間、豊臣秀吉の軍約20万が九州へと上陸し、ついに島津軍は撤退を余儀なくされました。
同年、島津氏は薩摩・大隅国まで追い詰められ、大友宗麟の援軍要請に応じて九州制覇を目指した豊臣秀吉に降伏しました。
島津義久は剃髪し川内泰平寺で秀吉と和睦します。
豊臣政権下
島津貴久の名誉を守る
秀吉に降伏後の天正15年(1587年 島津忠長が36歳の頃)、義久の上洛の供をしそのまま豊臣氏の人質として伏見に住みました。
文禄元年(1592年 島津忠長が41歳の頃)に島津歳久が自害に追い込まれた際は、首が京都の一条戻橋にさらされたのを取り返し今出川の浄福寺(のち宝林庵)に葬りました。
寡兵で大軍を打ち破る神業
その後の文禄・慶長の役にも従軍し泗川の戦いで奮戦、忠長は100の兵で10,000の明の大軍を撃ち破り、義弘の窮地を救うという神業をやってのけました。
これらの功績により宮之城領主に任命され、祁答院も領地として与えられています。
帰国後、慶長4年(1599年 島津忠長が48歳の頃)の庄内の乱に参陣。
慶長5年(1600年 島津忠長が49歳の頃)の関ヶ原の戦いの際は加藤清正の軍勢が水俣まで船を寄せたため、嫡男の忠倍と共に国境の警備役を担当しました。
戦後は島津氏の使者として新納旅庵・市来家政と共に徳川家康と交渉に当たり、関ヶ原の戦いにてやむを得ず豊臣方に加担したことを強調します。
忠長の言葉が効果的だったのか、家康は島津家の領地を安堵されました。
慶長15年(1610年)11月9日、宮之城にて死去。
享年60。
嫡男の島津忠倍が島津忠長に先立ったため、家督は新納氏の婿養子となっていた次男の久元が継ぎました。
忠長の系統が、「宮之城島津家」となり、子孫はこの地を代々襲封しました。
領主仮屋は現在の盈進小学校の場所に置かれ、周囲に麓がつくられています。
まとめ
いかがでしたか?
高橋紹運が守る岩屋城を落とし、朝鮮の役では100の兵で10,000の明の大軍を撃ち破る大活躍を見せた島津忠長。
島津4兄弟に隠れがちですが、島津らしくしっかり武勇絶倫な男でした。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!