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竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する刑に処された杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、甲賀の忍者である杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
杉谷善住坊の出自
甲賀五十三士中の一人に杉谷与藤次がおり、佐々木六角高頼の旗下に属し甲賀郡甲南町杉谷の杉谷城を守っていた。
その一族の一人である杉谷善住坊は、娘を六角義賢の妾として差し出しており、また鉄砲の大名人であった。
杉谷善住坊は雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。
この杉谷善住坊は鉄砲の腕を買われ、近江国を追われた六角氏から織田信長を狙撃するよう命じられます。
元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた織田信長は、翌5月に岐阜城への帰途についていた。
5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた信長を狙撃するが、弾丸は袂を貫いただけで失敗に終わった。
12-13間(20数m)の距離から2発銃撃したとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。
鋸挽きの刑
善住坊は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に大激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。
その結果、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、領主・磯野員昌に捕縛される。
織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。
鋸挽きの刑は、もっとも残忍で極刑中の極刑で、江戸時代に科されていた6種類の死刑の中で最も重い刑罰である。
なお『フロイス日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」事件のことが記されている。
それによれば、この仏僧は書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていたという。
信長の野望での杉谷善住坊
ゲーム信長の野望での杉谷善住坊のパラメーターを見てみましょう。
統率 42 (1716 位)
武勇 74 (247 位)
知略 62 (805 位)
内政 24 (2175 位)
外政 31 (2066 位)
合計 233 (1726 位)
2200人中の順位です。
忍者だったので知略が高く、政治が低くなっています。
鉄砲の名手なので武勇も高くなっています。
まとめ
いかがでしたか?
織田信長を狙撃するも失敗に終わり、最も残忍な鋸挽きの刑に処されてしまった杉谷善住坊。
ここで信長を射殺していると大きく歴史が変わってしまったことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。