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もう耐えきれない!毛利に寝返った尼子家臣の佐世清宗(させきよむね)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、尼子氏の家臣である佐世清宗(させきよむね)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
佐世清宗の一生
佐世清宗は尼子氏の家臣である佐世幸勝の子として生まれます。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1521年と設定されています。
尼子晴久が1513年生まれなのでちょい下ですね。
佐世氏は出雲守護の佐々木氏の一門で、出雲国大原郡佐世郷(現在の島根県雲南市大東町佐世)の佐世城を本拠としていました。
行政手腕を買われたのか、主君の尼子晴久から奉行衆に任命されます。
また文芸にも優れており、主君の晴久と共に連歌会の席に出席したり、清宗が書いた絵も残っています。
安芸国の毛利元就が勢力拡大し、尼子家と対立するようになると、佐世清宗は度々出陣した。
天文9年(1540年)9月には、毛利元就の吉田郡山城の戦い、永禄3年(1560年)7月には、石見銀山山吹城攻めに出陣した。
毛利氏が出雲へと侵略を開始すると、永禄6年(1563年)9月、尼子倫久を総大将とした白鹿城の救援に従軍するも敗北を喫して撤退した。
永禄8年(1565年)4月、毛利元就による第二次月山富田城の戦いの際にも、尼子秀久を大将とした3000余人で菅谷口を守った。
月山富田城が兵糧攻めにあい、兵糧が底をつき始めた同年冬の頃、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになった。さらには、亀井安綱、河本隆任、川副久盛、牛尾幸清、湯惟宗ら尼子氏の譜代の家臣までも投降し始めた。
この時、佐世清宗も息子二人を連れて毛利氏の包囲軍に降伏したようだ。
他の尼子家臣らより、破格の待遇をもって迎えられたという。
信長の野望での佐世清宗
ゲーム信長の野望での佐世清宗のパラメーターを見てみましょう。
統率 38 (1871 位)
武勇 41 (1787 位)
知略 50 (1494 位)
内政 67 (467 位)
外政 59 (837 位)
合計 255 (1402 位)
2200人中の順位です。
やはり奉公衆だったので政治パラメーターが高めの文官タイプになっています。
まとめ
いかがでしたか?
尼子家の奉公衆として活躍した佐世清宗であったが、尼子家の終焉になると耐えきれず毛利氏に降伏してしまった。
その後の尼子家臣は、尼子家再興組と毛利家臣組に分かれて生きていくことになっていったのであった。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
佐世清宗