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おでぶ過ぎて父からも嫌われた北畠具房(きたばたけともふさ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、伊勢国司・北畠家9代当主である北畠具房(きたばたけともふさ)です。
父・具教とは対照的な彼は、一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北畠具房の生まれ
天文16年(1547年)、第8代当主・北畠具教の嫡男として生まれます。
この頃北畠家は最盛期を迎えるので、その御嫡男なのでさぞ甘やかされたことでしょう。
永禄6年(1563年)、祖父の北畠晴具が亡くなると父・具教は隠居し、具房は家督を相続しました。
太りすぎて馬に乗れない
かなりの肥満体で、馬に乗ることが出来なかったといわれています。
龍造寺隆信も同じく肥満のため馬に乗ることが出来なかったことが伝わっていますね。
剣を極めた父・具房から疎外されていたと『勢州軍記』に記されています。
織田家に乗っ取られる
永禄12年(1569年)8月、織田家の伊勢侵攻のため、大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城するも兵糧攻めされ、10月に父と共に織田信長と和睦します(大河内城の戦い)。
この時、敵方の織田軍からは「大腹御所の餅喰らい」とからかわれています。
和睦の条件は、信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養嗣子として迎えることという屈辱的なものであった。
天正3年(1575年)、茶筅丸が具豊として北畠家の家督を継ぐと、具房は「中の御所」と敬称されるようになる。
天正4年(1576年)11月、大台の三瀬台に隠棲していた父・具教が信長・信意(具豊改め)父子によって殺害される(三瀬の変)と、具房は幽閉の身となり、その身柄を織田家の伊勢方面担当であった滝川一益に預けられて安濃郡河内に3年間幽閉された。
後に幽閉は解かれるも、その直後の天正8年(1580年)1月5日に京で死去。享年34。
信長の野望での北畠具房
ゲーム信長の野望での北畠具房のパラメーターを見てみましょう。
統率 28 (2125 位)
武勇 34 (2012 位)
知略 31 (2147 位)
内政 34 (1991 位)
外政 27 (2139 位)
合計 154 (2188 位)
2200人中の順位です。
これは目も当てられませんね。
ほぼ最下位です。
この下には一条兼定くらいしかいませんね。
まとめ
いかがでしたか?
今川氏実のような2代目ボンボン臭がしましたね。
彼がもっとまともで家中を率いる猛将であれば、違った結末になったかもしれません。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
北畠具房