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一向宗でない領民は全員惨殺していく北原兼孝(きたはらかねたか)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、日向(宮崎県)の豪族である北原兼孝(きたはらかねたか)です、別名松斎。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北原兼孝の生まれ
北原兼孝は北原氏11代当主・北原久兼の次男として誕生。
生年は不明ですがゲーム信長の野望では1501年に設定されています。
北原氏は真幸院や霧島の西へ十キロあたりの横川を治めており、戦時における兵の総動員数は一万とも一万五千とも言われていたので島津、肝付、伊東、さらには肥後の相良氏からも一目おかれ、この地方における一大勢力と見なされていました。
北原兼孝は飯野城主として真幸院の飯野方面を治めていました。
北原兼孝の活躍
日向の伊東祐充が勢力を拡大していくと周辺の北郷忠相・島津忠朝らは天文元年(1534)北原氏と盟約し、打倒伊東として挙兵します。
そこで北原兼孝は兵8,000を率いて野々美谷に向かった。
北郷・島津・北原連合軍は伊東氏を追い詰め、伊東氏は戦死者730余人を出し大敗した。
伊東家に乗っ取られる
天文2年(1535年)、兼孝は家督争いが勃発した日向伊東氏に対し、伊東義祐の援軍と称して綾に兵3,000を布陣、綾城か三俣院高城(日和城)のいずれかの割譲を迫り、義祐に高城の割譲を約束させている。
その後も、北郷氏との戦いや、縁戚である伊東氏の支援などに出陣しているが、天文13年(1546年)3月には島津貴久の依頼を受け、島津氏宗家に叛乱し薩州家に与した肝付兼演の加治木城を攻めるのに加勢している。
永禄元年(1558年)、甥で北原氏13代当主の北原兼守が三山城内で病死する。
兼守には男子がなかったため、兼孝の男子に自らの娘を娶せて後を継がせるよう遺言していたが、その娘も夭折したことで、一族・重臣らは協議して兼孝を立てようとした。
そこで伊東義祐が介入し、兼守の未亡人に馬関田右衛門佐を配してこれを三山城においた。
北原氏の重臣らは兼孝を後継者にすることを強く主張し抗議したため、翌永禄2年(1559年)3月17日に義祐が反対派を都於郡城にて詰問するとして呼び出し、その帰途を待ち伏せて粛清したことで家督は右衛門佐が継ぐことになる。
それにより、北原氏は事実上伊東氏に乗っ取られた。
そして邪魔になった兼孝は、永禄5年(1562年)北原旧臣の平良兼賢と伊東家臣の長倉祐政により飯野城に誘き出されて殺害された。
また兼孝の男子も、狗留孫峡に在ったところを大河平氏により殺害された。
北原氏の領地である真幸院・栗野・横川・高原などは伊東氏が吸収し自らの版図に加えてしまった。
病的な一向宗徒
北原兼孝は病的なまでの一向宗門徒だったようで、領民に対し「一向宗とならねば打ち殺す」として入信を強要したと『飯野郷土史』に記される。
信長の野望での北原兼孝
ゲーム信長の野望での北原兼孝のパラメーターを見てみましょう。
統率 33 (2021 位)
武勇 42 (1744 位)
知略 67 (552 位)
内政 37 (1900 位)
外政 50 (1324 位)
合計 229 (1784 位)
2200人中の順位です。
領民に圧政を敷いたので内政はとても低いです。
まとめ
いかがでしたか?
宗教に熱心なのはいいですが、それを他人に強要するのはダメです。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
北原兼孝