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小島職鎮(こじまもとしげ)とは?恩を仇で返す!主家を滅亡させた神保家臣【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、神保氏の家臣である小島職鎮(こじまもとしげ)、別名は全安、六郎左衛門尉です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
神保家臣から上杉家臣へ
小島職鎮の生年は不明ですがゲーム信長の野望では1523年と設定されています。
神保長職の重臣です。
神保氏とは越中国(富山県)の大名ですね。
越前国(福井県)朝倉氏と交渉をしたりと、神保家の中で重役で外交の担当もされていたんですね。
しかし天文期に主君である神保家が上杉謙信に敗れると、神保家中で親上杉派となり、親武田派である神保家臣の寺島職定とは対立してこれを排除し神保家中の実権を握りました。
寺島長職が没すると、上杉家臣化し上杉氏から越中衆の筆頭として重用された。
転職先でも結果を出す人間だったので、小島職鎮はやはり優秀な人だったのでしょうね
日宮城の戦い
元亀3年(1572年)、武田信玄は上洛(西上作戦)を本格化させるためには、上杉謙信に背後を突かれない必要があるため、加賀国・越中国の一向一揆を主力に神保長城、椎名康胤らに挙兵を要請しています。
そして同年5月24日から一揆勢は日宮城に対して攻撃を開始します。
この頃、謙信は越相同盟を破棄して甲相同盟を結んだ北条氏政のために関東に出兵していたため、上杉軍は越中に在国している兵力だけで一向一揆と戦うことを余儀なくされていました。
日宮城の守将であった神保覚広は越中国新庄城主・鰺坂長実に援軍を要請し、上杉方は鰺坂長実や山本寺定長等を援軍として派遣するも、援軍は間に合わず呉服山で一揆勢の迎撃に遭い退却。
そこを追撃されて、惨敗した。
援軍が期待出来なくなった神保覚広、小島職鎮、安藤職張、水越職勝ら守将らは同年6月15日に開城。
一揆勢と和議を結んで能登国石動山天平寺へと落ち延びた。
これによって勢い付いた一揆勢はそのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城(翌年に謙信によって再度攻略されている)をも落としている。
戦後この大損害について咎められるも職鎮は弁明に努め、この後も上杉氏からは厚遇されており、上杉謙信死後遺品の太刀を贈られている。
主家を滅亡に追い込む
天正10年(1582年)3月、甲斐の武田勝頼の虚報(武田領内に押し寄せた織田・徳川両軍を勝頼が悉く討ち果たしたとのもの)をうけて、小島職鎮は神保覚広・唐人親広らと富山城を急襲し、神保長職の子・神保長住を捕らて追放。
これが原因となり越中守護代神保氏は滅んでしまいます。
しかし柴田勝家らの攻撃を受けて、富山城を明け渡すと、以後は上杉景勝に従ったようで、佐々成政の越中平定に抵抗しています。
信長の野望での小島職鎮
ゲーム信長の野望での小島職鎮のパラメーターを見てみましょう。
統率 49 (1385 位)
武勇 47 (1513 位)
知略 69 (467 位)
内政 64 (589 位)
外政 68 (430 位)
合計 297 (726 位)
2200人中の順位です。
合戦で活躍した記録があまり残っていないので武勇や統率などのパラメーターは低いですね。
しかし、神保家の重鎮で上杉家臣になっても目立った存在なので残りのパラメーターは比較的高く、全体的に中の上と行ったところでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
上杉家臣となり活躍していくというところまではいいのですが、かつての主君の息子を幽閉するとはよくないですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。