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北之川親安(きたのがわちかやす)とは?西園寺十五将の一人で謀反の巻き添えのため戦死【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、西園寺氏の家臣である北之川親安(きたのがわちかやす)、別名は紀親安です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北之川親安の生まれ
北之川親安は西園寺十五将の一人に数えられる北之川経安の子として誕生します。
生年は不明ですがゲーム信長の野望では1534年と設定されています。
経安の時代は甲之森城を本拠にしていたが、親安の代に三滝城に本拠を移しています。
西園寺十五将
西園寺十五将とは、戦国時代の伊予国宇和地方の大名の西園寺公広とその被官からなる代表的な武将を指した呼称で以下の人物がいます。
- 西園寺公広
伊予の豪族。黒瀬城主。叔父・実充の養子となり家督を継ぐ。のちに豊臣秀吉の四国征伐軍に降るが、西園寺旧臣の叛乱を警戒した戸田勝隆により謀殺された。
- 西園寺宣久
西園寺家臣。公広の弟。板島城主。西園寺十五将の1人に数えられ、板島殿と呼ばれた。伊勢神宮に参拝した際、紀行日記である『伊勢参宮海陸記』を著した。
- 観修寺基栓
- 津島通顕
- 法華津前延
西園寺家臣。伊予法華津城主。西園寺十五将の1人。大友家の侵攻軍を何度も撃退した。豊臣秀吉の四国平定後、宇和郡を領した戸田勝隆の命により下城した。
- 今城能定
- 土居清良
西園寺家臣。伊予大森城主。西園寺十五将の1人。一時土佐へ逃れるが、土佐一条家の援助で復帰し、各地で活躍した。知略勇武で知られ「清良記」を著した。
- 河野通賢
- 竹林院実親
- 渡辺教忠
- 北之川経安
- 魚成親能
- 宇都宮乗綱
- 宇都宮房綱
西園寺家臣。萩森城主。伊予宇都宮家の一族という。近隣の元城主・摂津親宣と領地問題で何度も争った。西園寺十五将の1人に数えられ、萩森殿と呼ばれた。
- 南方親安
西園寺氏・長宗我部氏に仕える
父と同様に西園寺氏に仕えます。
西園寺氏は伊予(愛媛県)の大名ですね。
しかし主家の西園寺氏が、長宗我部元親の攻撃を受け巨従したため、北之川氏を始め西園寺十五将らも長宗我部氏に降りました。
三瀧城の戦い
伊予三瀧城主の北之川親安は長宗我部氏から厚遇され元親の娘婿である波川清宗の娘を妻に迎えたが、清宗は過去に失態を行い蟄居の身で、その不満から天正8年(1580年)12月に主家の長宗我部氏に謀反を起こす。
親安はこの謀反に加担していない旨を起請文にしたためるが、元親に「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が与えられる」との強引な理由で、伊予に侵攻した長宗我部家臣の久武親直に居城・三滝城を攻められ戦死した。
なおこの時に子の北之川正親は岡豊城で斬殺されている。
子の北之川宗親は生き延びて姓を「紀」に改め、土佐国で庄屋紀家の祖となっている。
信長の野望での北之川親安
ゲーム信長の野望での北之川親安のパラメーターを見てみましょう。
統率 47 (1483 位)
武勇 38 (1897 位)
知略 50 (1494 位)
内政 53 (1155 位)
外政 54 (1104 位)
合計 242 (1603 位)
2200人中の順位です。
西園寺十五将という名の割には能力が低いです。
まとめ
いかがでしたか?
もしかしたら長宗我部元親は、波川清宗が謀反しそうなことを見越して北之川親安に婚姻させたのでしょうか?
事前に謀反が発覚しているので、そのような気配があったのでしょう。
他の西園寺十五将はその後どうなっているのだろうか?調べて記事化しますね!
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。