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上杉景虎派の重鎮で御館の乱の際に景勝に暗殺された北条景広(きたじょうかげひろ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、上杉氏の家臣である北条景広(きたじょうかげひろ)です。
「ほうじょう」ではなく「きたじょう」なのでお間違いなく。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北条景広の生まれ
北条景広は天文17年(1548年)に北条高広の嫡男として誕生します。
父の高広は武将としての器量に優れ、「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と謳われたほどの人物でした。
永禄6年(1563年)、父・高広と共に厩橋城に入り、父と共に主君・上杉謙信の関東方面の政治や軍事を助けた。
その武勇から鬼弥五郎と称された。
天正2年(1574年)、父の隠居により家督を継承する。
御館の乱で暗殺される
天正6年(1578年)に謙信死去によって上杉氏の御家騒動である御館の乱が起きると、上杉景虎を支持して、越後国へ進軍し上杉景勝の軍と各地で戦った。
景勝は「北条丹後守(景広)さえ討ち取れば、景虎は如何にもなるべし」と配下を叱咤した。
天正7年(1579年)2月1日、景勝軍の武将・荻田長繁は、景広が府中八幡宮に参籠した帰りを狙い、少人数で襲撃し槍で刺殺。
景広は長繁の槍を受け負傷し、それが致命傷となり死去した。
景虎派の中心人物の一人であった景広の死によって、景虎派の勢いは完全に消え求心力を失い離反者が続出し、敗北することになった。
上杉謙信が北条高広にあてた書状に能登の戦国大名である畠山義隆の妻(三条氏女)を景広に与えたと記述があることから、未亡人となった義隆の妻は北条景広に嫁いだとする説がある
信長の野望での北条景広
ゲーム信長の野望での北条景広のパラメーターを見てみましょう。
統率 46 (1534 位)
武勇 64 (607 位)
知略 47 (1648 位)
内政 33 (2017 位)
外政 35 (1967 位)
合計 225 (1839 位)
2200人中の順位です。
武勇が高いですね。
父の高広の能力値がとても高いので、彼ももう少し高くても良いでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
北条景広が暗殺されていなければ、もしかしたら上杉家の家督が景勝ではなく景虎になって、その後の上杉家は全く変わっていたかもしれませんね。
歴史のifを考えると底が尽きません。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。