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  • ● 1557年 毛利元就が周防を平定
  • ● 1574年 織田信長が朝廷より名香木の蘭奢待を拝領する
  • ● 1611年 豊臣秀頼が徳川家康と二条城で会見
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池田せん

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怪力自慢で当主自ら最前線で戦った伝説が残る安芸武田家10代当主の武田光和(たけだみつかず)とは?【マイナー武将列伝】

怪力自慢で当主自ら最前線で戦った伝説が残る安芸武田家10代当主の武田光和(たけだみつかず)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。

今回紹介するのは、安芸武田家10代当主である武田光和(たけだみつかず)です。
甲斐の武田家とは関係なく、安芸(広島県)の武田さんです。

一体何をしたのでしょうね?

さっそく行ってみよう。

武田光和は安芸武田家10代当主。佐東銀山城主。尼子家に属した。たびたび大内家に攻められるが、家臣団の奮闘で城を守る。しかしのちに家臣団の離反を自ら招いた。

目次[非表示]

武田光和の生まれ

武田光和は文亀3年(1503年)に安芸国の武将・武田元繁の嫡男として誕生。

永正14年(1517年)10月28日の有田中井手の戦いで父が戦死した為、若くして跡を継ぎ安芸武田氏当主となりました。

この戦いでは父の他、重臣であった熊谷元直や香川行景らも戦死しており、更にこの戦いより数年前には熊谷信直の父・熊谷膳直も亡くなっていた事から、代々仕えた重臣を一斉に失った安芸武田氏はこの戦いを境として衰退の一途を辿っていく事になった。
父同様に武勇に優れた人物であり、親尼子の立場を貫き、大内氏や毛利氏と争ったが、父の時代の勢いを取り戻すことは出来なかった。

T-fileの管理人Takataka

若い当主にこの初期条件はちと厳しいですね。

佐東銀山城の戦い


鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。

武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。

大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。

陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。

7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。

一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。

8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。

尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。

腹心の熊谷信直が離反

光和は厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した友田上野介方を支援するなど積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。
また、所領などを巡り、家臣であった熊谷信直の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。
これは、正室である信直の妹と折り合いが悪く、この正室と離婚したことも離反の原因とされている。

三入高松城の戦い


天文2年(1533年)安芸武田氏から離反した重臣の熊谷信直毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが三入高松城は落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。

武田光和の最後

再度、信直の討伐を進めていた天文9年6月9日(1540年7月12日)に、37歳で嫡子を残すことなく急死。
実子はいたが、いずれも妾腹で、また小三郎を除き夭折していた。
そこで同族の若狭武田氏から武田信実が迎えられたが、安芸武田氏の衰運は決定的となった。

安芸武田氏の菩提寺は不動院(安芸安国寺)であり、同寺には武田刑部少輔の墓がある。
また、庶子の武田小三郎は、毛利氏に仕えて周防武田氏を名乗ったが、周防源氏武田家屋敷跡(現在の山口県岩国市玖珂)には光和の墓も建てられている。
これは、佐東銀山城付近にあった墓と遺骨を遷したものと伝えられる。

信長の野望での武田光和

ゲーム信長の野望での武田光和のパラメーターを見てみましょう。

統率 25 (2166 位)
武勇 44 (1654 位)
知略 31 (2147 位)
内政 31 (2064 位)
外政 27 (2139 位)
合計 158 (2186 位)

2200人中の順位です。

よっわ!!これは弱い。
怪力自慢なので武勇が40代ですが、それ以外は終わっています。

まとめ

いかがでしたか?
大内・尼子・毛利など周辺諸国に渡り歩こうとするも能力不足のため衰退を招いてしまった武田光和

さすがにこのメンツは恐ろしいです。

それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。

参照
武田光和
三入高松城

記事に登場する武将

信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

taka

信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬