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大坂の陣で活躍し三河刈谷藩初代藩であった稲垣重綱(いながきしげつな)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、徳川家の家臣である稲垣重綱(いながきしげつな)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
稲垣重綱の生まれ
天正11年(1583年)、徳川十七将の一人である牧野康成の家臣であった稲垣長茂の長男として生まれる。
稲垣氏は文明年間に、伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系である。
1590年、父・稲垣長茂は牧野氏から離れ徳川家康の直参組になっています。
稲垣重綱の活躍
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)の居城・信州上田城攻めに参加します。
慶長17年(1612年)、父・長茂の死により家督と上野伊勢崎藩1万石の所領を継ぎ、伊勢崎藩第2代藩主となりました。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては酒井家次隊に属して参戦し、戦功を挙げたことから元和2年(1616年)、越後藤井藩2万石に加増移封された。
元和6年(1620年)、さらに3000石加増のうえ、越後三条城に居城を移した。
慶安元年(1648年)から慶安2年(1649年)の間には、大坂城代も務めている。
慶安4年(1651年)、廃されて幕府領となっていた三河刈谷藩が重綱が2万3000石で入ることで再び立藩される。
承応3年(1654年)1月8日、72歳で死去した。法名・法性院光岳宗本。
嫡男の重昌は既に死去していたため、重昌の長男・重昭が跡を継いだ。
信長の野望での稲垣重綱
ゲーム信長の野望での稲垣重綱のパラメーターを見てみましょう。
統率 40 (1796 位)
武勇 57 (973 位)
知略 50 (1494 位)
内政 50 (1322 位)
外政 48 (1430 位)
合計 245 (1553 位)
2200人中の順位です。
全体的に低いパラメーターですが、大坂の陣で戦功があったためか武勇パラメーターが少し高く設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
大坂の陣で30歳頃だったので、生まれたのが少し遅かったですね。
数年ですが大坂城代を任されているってすごくないですか?
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
稲垣重綱